愛用しているバイオリンは母の形見で、幼い頃からずっと傍にあった。
ベースを手にしたのは最近の事。そこから、俺の世界は広がった。
大学のキャンパスを一人で歩いていた。手に提げたバイオリンケースが今日はいつもより重く感じる。
疲れた、と思うのは俺の弱さだとわかってはいる。俺に対するあの教授の覚えがあまりよろしくないのは以前からだし、それを差し引いてもそろそろ自分の音を他人から評価される事に慣れなくてはいけない。
ただ、いつまで俺はこの、手に馴染んだ革のケースの中に収まっている楽器を抱えていられるだろう。
プロのバイオリニストにならないのならばおとなしく家を継げ、と父親の言葉が胸の深いところから首筋を伝ってじわりと耳に甦って、それを追い払うかのように溜め息をついた。
アスファルトではなく風情のある石畳が敷き詰められた構内には学舎から門までの間に点々と常緑樹が植えられている。
エバーグリーンは学問の永久の繁栄を象徴しているらしいが、単に管理者が落ち葉の掃除をする手間を省くためなのではないかと疑えなくもない。
その一本一本に、樹をぐるりと一周する形でベンチが備えられていて、そこでは本日のカリキュラムを終わらせた学生が友人達と、あるいは一人でそれぞれの時間を過ごしていた。
その一つに、ある男が座っていた。
そもそも大学という場所の大抵が、関係者以外の訪問も寛容に受け入れるような性質を持っている。彼は学生というには少々年齢がそぐわない気もするが、無造作に伸ばされた長い髪とスローモーションで空へと昇る煙を吐き出す哲学者然とした整った横顔が、今ここにいる誰よりも学び舎という世間から故意に隔離された場所に溶け込んでいた。
「どうしてここにいるんだ」
声をかけてからしまった、と思った。俺の声に反応して低い位置からこちらを見上げる瞳が、眼鏡の奥でやや見開かれるのがわかったからだ。
このまま通り過ぎてしまえば彼は俺に気が付かなかったかもしれないのに。
「やあ、ジュリオ。ここの大学の職員に知り合いがいてね、急に呼びつけられたのさ。つまらない用事だったけれど」
柔らかく微笑みを浮かべた彼は指の間でずいぶん短くなった煙草をアルミの携帯灰皿の中へ押し込みながらそう言った。キャンパス内は全面禁煙である。ちなみにこの全面というのは大学の敷地内すべてを指しているので、屋外とはいえ当然ここも例外ではない。
「それで、ここがジュリオの通っている大学だって思い出して、待っていたらもしかしたらジュリオに会えるかもしれないと思ったんだ。けど、まさか本当に会えるとは思わなかった」
「俺、は……」
「せっかくだから、少し一緒に歩かないか?」
ベルナルドは俺の返事を待たずに立ち上がって歩き出した。仕方なくその後を追う。数歩で薄すぎる肩の真横に並んだ。
俺はベルナルドが苦手だ。
もし俺がここを通らなかったら、あるいはさっき声をかけなかったら。
それでもきっとベルナルドは落胆もせず、気が済むまで待ったら何事もなかったかのようにここを立ち去るのだろう。無為な時間を過ごしたと後悔する事もなく。
または、その発言自体が嘘という可能性だってある。俺の姿を見てから思いついた事を適当に言った、とか。ベルナルドならやりかねない。
そして、俺にはそのどちらも到底出来そうにない、と思う。
ベルナルドは少し歩いたところで近くにあった自動販売機の前で立ち止まり、迷いなくコインを入れた。押したボタンは二つ。
取り出した二本の缶コーヒーのうち、薄茶色したカフェオレの缶のプルタブを開けて俺の方へ渡してきた。
俺が砂糖とミルクが入っていないコーヒーは飲めない事を覚えていてこれを選んでくれたのだろう。しかしどうせ気を遣うのならば、ブラックが飲めないのを、俺がひそかに気にしている事まで察してくれれば良いのに、と理不尽な苛立ちを覚えた。
けれど、ベルナルドの手に握られた黒い缶が目に入り、それは苦いコーヒーが飲めない事よりもずっと子供っぽい我がままだと気付いて決まりが悪くなり、買ってもらったコーヒーの礼も満足に言えなかった。そしてそれが俺をさらに自己嫌悪へと追いやる。
缶と同じ色の甘ったるいコーヒーはかすかに金属の味がした。
徐々に冷めていくスチール缶を握りしめ、憮然として黙って歩く俺にベルナルドは特に気分を悪くした様子もなく、そういえば、と気楽に話しかけてきた。
「ジュリオは卒業後の進路はもう決まっているのかい?」
それはベルナルドを見つける直前に考えていた事だったので一瞬どきりとした。ベルナルドの視線が軽くバイオリンケースへ向けられる。そういう連想か。
いや、まだ考えていない、と無愛想に答えた。
ベルナルドにとっては当然の、何気ない世間話の一環かもしれなかったが、俺にとってそれは少し重い質問だった。しかし少なくともバイオリニストの道を進むことはないのだけは確かだ。
幼い頃は、バイオリンを弾く事がただ純粋に楽しかった。我ながら上達も早かったと思う。自分に才能があると断言はできなかったが、それでも親に勧められるまま進学先に音大を選ぶ事にまったく疑問を感じなかった。
違う、と知ったのは大学に入ってしばらくしてからだ。ある教授にこう言われた。
なるほど、技術は素晴らしいが、君の音には心がない。
音に心を込める方法がわからなかった。そもそも音に乗せられるほどの激しい感情や心の持ち合わせがなかった。俺の評価は表現力の点はいつもマイナスだった。頭上では限界のボーダーラインが見え隠れしていた。
そんな時だ、ベルナルドに誘われてエレクトリックのベースを始めたのは。クラシックに行きづまっていた俺はロックバンドに参加する事が息抜きにでもなれば良いと思って引き受けた。
息抜き以外にベルナルドが与えてくれたのは、ベースの鳴動によって引き起こされる低音の快楽。
それと、ジャンとの出会い。
今ではジャンは俺のすべてだ。からっぽの俺の心いっぱいにジャンを詰め込んで、俺の空白は埋まっていった。
ジャンの歌はいつでも奇跡のように素敵だった。どんな歌でもジャンが歌えば世界一美しい曲に早変わりする。
けれど、ジャンが一番輝くのはベルナルドの作った歌を歌っている時なのだ。
ベルナルドの創る音はとても個性的だ。言葉ではうまく説明できないが、例えばいきなり知らない曲を聞かされたとして、それがベルナルドの作ったものであれば、ああこれは彼の音だ、とわかるくらい。
人はそれを才能と呼ぶのだろうか。
そしてベルナルドの曲はジャンが歌う事で初めて完成する。音楽に関してはお互いが最上だ、と二人は言い切った。
ベルナルドが羨ましかった。
ジャンが大切にしているもので、ジャンの特別になれるベルナルドが、泣きたいくらいに羨ましい。
俺もジャンに必要とされるものになりたい。
けれど俺には何もなくて、ただひりひりと焦げるような想いだけがあって。
「俺はジャン、さんが、好きだ……」
前後の脈絡も何もなく、零れ落ちるのを止められなかった言葉が口から転がり出た。ベルナルドがゆっくりとこちらに顔を向けるのが気配でわかったが、俺は目線を合わせず俯いて唇を噛み締める。
失敗した、と思ってもさっきの言葉を取り消したり誤魔化したりはしたくなかった。
そんな事をしても、この気持ちを取り消すなんてできないから一緒だ。
横目でベルナルドの様子を窺うと、彼はもうこちらを見てはおらず、視線をやや空の方に向けていた。いつもは饒舌なくせに、今日はそれ以上何も言わない優しさに、やはりベルナルドは苦手だ、と思った。決して嫌いにはなれないところが、更に。
やがて大きな道路に面した正門に着くまで俺達は無言で歩いた。沈黙はやけに心地良かった。
門を出るとすぐベルナルドは、さて、と言って立ち止まった。
「この後の予定は?良ければ車で家まで送って行くよ?」
「今日はもう帰るだけ、だが。それは、あの派手なスポーツカーで……?」
申し出はありがたいが、できればあの原色のオープンカーにこの地味な割に目立つ男と乗り合わせるのは遠慮したい。やんわりと断ろうとしたが婉曲に辞退するという器用な真似は俺には難しく、条件反射であからさまに嫌な顔をしてしまった。
自分でもわかるくらいに眉根が寄った俺に対して、ベルナルドはフハハ、と不気味に笑う。
「俺の愛車についてはみんな、こぞってそういう反応をするなあ。最初は不満だったんだが、だんだん面白くなってきたよ」
「悪趣味だな。車も、アンタも」
「良い色だと思うんだけどね。どうも不評だな」
「あの赤が、か?」
「赤い色が好きでね。そう、最近、好きになった」
内緒だよ、と人差し指を立ててみせたベルナルドの妙に子供っぽい仕草はきっと照れ隠しなのだろう。
何故内緒なのか、そして誰に対して内緒にすればいいのかまったく不明だったが、秘密協定に賛同してやってもいい。ベルナルドの秘密を握れるなんて、ちょっと楽しい。
了解の意味の微笑みを浮かべて、俺は頷く。
すると、ベルナルドは眩しいものを見る時のように目を細めて俺を見た。
「ジャンの言っていた通りだな」
「ジャン、さん?」
「うん、ジャンがね、ジュリオは普段無愛想だけど笑うと天使みたいに可愛い、って。俺も今そう思ったよ」
ジャンの名前に鼓動が過剰反応する。
ジャンはベルナルドによく俺の話をするのだろうか。それは、俺がいない時にジャンは少しでも俺の事を考えてくれているという証になるだろうか。
もしそうなら嬉しい。そんな小さな事が、すごく嬉しい。
俺について、他にジャンがどんな事を話したのか聞きたかった。何と聞こうかと口を開け閉めする俺に、ベルナルドは軽く吹き出して、やはり目を細めてこちらを見る。
もしかしたらその表情は笑顔よりも泣き顔に近いのかもしれないと、急にそんな事を思った。
ベルナルドが笑いながら言った。
「俺はジュリオが羨ましいよ」
どうして、と問い返す隙を与えずベルナルドは歩き出した。
道路の向こう側、少し進んだ所に例の赤い車が見える。あんな所に停めて、駐禁を取られていなければいいが。
歩く度にふわふわと弾むベルナルドの髪の先を見つめながら、俺はひっそりと再び微笑んでみる。
やっぱり、俺はもう少し俺のままでいい。
ベルナルドみたいにはなれないけれど、せめて。
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