ベルトにぶら下がったキーチェーンについている鍵は4つ。
自宅のアパートの鍵、バイト先の店の鍵。自転車の鍵。
そして、最後の一つはベルナルドん家の鍵。
「お邪魔しまぁーす。ベルナルドぉ?いねえの?」
ベルナルドが住んでいる部屋は変な形の5階建てマンションの3階だ。デザイナーズマンションというらしい。
内装はコンクリート打ちっ放しだから冬は寒いし夏は暑い。しかも変な間取りで、全体の面積は広いくせに2部屋しかない。そしてこのテのマンションの最大の特徴はデザイン料というやつで、土地の相場よりもずっと法外な賃貸料を要求してくるところだ。貧乏人の俺には、何だかお洒落、という理由だけで高い金を払える感覚はよくわからない。
鉄でできた玄関の重い扉を開けてすぐの、ダイニングとリビングが一緒になった空間はここの大半の面積を占めている。このリビングに小さな部屋が2つくっついていて、一見ワンルームみたいな印象の作りになっているのだ。
ベルナルドは基本的に出不精だから、大抵リビングの隅に置かれたパソコンの前で株だの投資だのの小難しい事をして金儲けをしているのだけれど、今日は高いスツールの上に見慣れた眼鏡姿の男は見当たらなかった。
2つの部屋のうち1つはベルナルドの寝室で、ベッドとクローゼットがあるだけの簡素な部屋である。そこも一応開けてはみたが、シーツの間から長い髪がのぞいていることもなかった。
残るもう一方の部屋には、ど真ん中にグランドピアノがどんと据えられていて、壁際にはギターがいくつかと、大仰なオーディオと楽譜が並べられている。いわゆる音楽部屋だ。
ベルナルドはここに引っ越す時、何よりもまずこの部屋の防音工事をしたらしい。おかげで夜中にどれだけ大音響でオーディオを鳴らしてもどこからも苦情が来る事はない。音狂いでしかも宵っ張りのベルナルドには最重要の設備だ。
そしてやはり、今宵はそこにもベルナルドの姿はない。
仕方がないので、この部屋の主であるグラマラスなフォルムのピアノに向かって、久しぶり、と挨拶する。
彼女と俺は良い友人だった。もちろん、今でもそう。
もう何年も前の話になるが、俺はここでベルナルドと一緒に暮らしていた。と言っても、同居なんていいもんじゃなくて、単に居候だ。
手短に話すと、当時俺は浮浪者同然の生活をしていて、あるきっかけでベルナルドに拾われたのだ。
もちろん、最初は俺も疑った。ほぼ見ず知らずの他人だったのに、それがいきなり住まわせてくれて、しかも家賃タダ、生活費も入れなくていいなんて旨い話が普通あるはずもないし。正直、カラダでも要求されるのかとも思った。
けれどベルナルドが俺に課した仕事はただ一つ。
彼のために歌う事。
歌は得意だった。
ほとんどそれしか取り柄がないと言ってもいいくらいだ。
だからここにいる間、ベルナルドが聞きたいと言ったらそれがどんな時でも、例え夜中だろうが台風の日だろうが俺は歌った。
本当のところ、そこまで金に困っていたわけじゃない。いや、金はないのは事実だ。今もないし。だがその日暮らしは俺の性に合っていたから別に辛くもなかった。犯罪に手を染めなくてもすむ程度のギリギリの生活だったが、それでも何とか楽しくやっていた。
だから、この奇妙な義務を伴う生活を受け入れる事にしたのは、単純に嬉しかったからだろう。
人に必要とされること。
俺の歌が必要だといってくれるベルナルドの存在。
俺は歌った。アカペラで、あるいはベルナルドの弾くピアノにあわせて。
ベルナルドがつやつや輝く鍵盤を弾くと魔法みたいに旋律が溢れ出した。
ベルナルドは俺にもピアノの弾き方を教えてくれたけど、あまり上手くはならなかった。俺は早い段階でキーを叩く事は諦めて、その代わりベルナルドを介して、共に音を紡ぎ出す事でピアノとの友情を育んだのだった。
無言で歓迎してくれた彼女に手を振ってドアを閉める。それからキッチンへ向かった。
特別ベルナルドに何か用事があったわけじゃない。家主がいなくても勝手知ったる何とやらで冷蔵庫を開けた。予想通り缶ビールとミネラルウォーターの行列に出迎えられて俺は少し笑った。
変わってねえな、と。
確かにベルナルドから言い渡された仕事は歌だけだったが、ここに転がりこんで幾日も経たないうちに食事の用意も俺の仕事になった。
ベルナルドは放っておいたらアルコールとカフェインと、あとせいぜいチーズの欠片とかそんなものしか口にしないで一日を過ごすことも多い。そんな食生活じゃあ胃が退化してなくなってしまう。ベルナルドのためというよりもむしろ俺が耐えられなかった。ベルナルドは俺の作った物をそれなりに食べてはくれたが、俺が出て行ったとたん冷蔵庫の中身はこの有様に逆戻りのようだ。
やっぱり根本的な習慣はそうそう変わらないみたいだな、と呆れながら、妙に奇麗に整列した缶ビールから青いパッケージのものを選んで取り出す。聞いた事のない銘柄だがビールの味にこだわりはない。泡が立てばとりあえずそれでいい。
プルタブを立てるとぷしゅっと心地良い音がした。
ベルナルドとの生活は半年程で終幕を迎えた。
いい加減いつまでもベルナルドに甘えているわけにはいかないと思った俺はある日、本当に突然ここを出て行く事を決意した。まったく何の前触れもなくその話を切り出したのにも関わらず、ベルナルドは特に驚きもしなければ反対もしなかったのでちょっと拍子抜けしたのを覚えている。
そうやって拾われた時と同じく実にあっさりと俺の自立は決定した。もっとも、新しいアパートの保証人になってくれたり、アルバイト先を紹介してくれたりと、自立というには随分ベルナルドに頼りっぱなしの情けないスタートだったけれど。
ちなみに今も続けているそのアルバイト先とは小さなバーのバーテンの仕事で、ルキーノがオーナーの店だったりする。ルキーノとはその時初めて会った。
引越しの当日にはさすがに少し寂しくなって黙りがちだった俺に向かって、ベルナルドはやけに明るく笑って、そうだ、バンドをやろう。ロックバンドだ、と言ってきた。
どんな思いつきだよ、とその時は言い返したが、結局ベルナルドの気まぐれなその発言でその他数名も巻き込んで今に至っている。
合鍵は返さなくていいと言われたので今も持っているし、時々こうやって遊びに来ては勝手に上がり込んだりしているけれど、ここはもう俺の家じゃない。
家主が手をつけないせいですっかり俺のテリトリーになっていたキッチンは、今ではシンクもからからに乾いていて、調理台の前には俺と入れ替わりにやってきたパキラの鉢植えが陣取っている。ほとんど世話をされていなさそうだが、その割には1メートルくらいの大きさはあった。だがやっぱり栄養が足りないせいか、尖った葉っぱの先が少し黄色くなっていた。
ひょろひょろと背ばっか高いところとか、ベルナルドみたいだな、と笑ってつつくとパキラは心なしか不機嫌そうに揺すった。悪い言い過ぎたよ、と謝って飲みさしのビールを少しだけ根元の土にかけてやる。ビールって栄養あったっけ。まあいいや、乾杯だ。
ダイニングテーブルの椅子を鉢植えの横まで引っ張ってきて腰掛けて、つんと澄ましているパキラに話しかけた。
「なあ、相棒。もう時効だし、懺悔してもいいよな……?」
あの頃、俺はきっとベルナルドに恋していた。
時折触れてくる節の浮いた指に。耳を擽る低い声に。傍にある柔らかな微笑みの気配に。
あの泣きたくなるような甘い痛みを、今ならば恋と呼べる。
ベルナルドは俺の気持ちなんかこれっぽっちも知らなかっただろう。
いつだったか、リビングは広くて落ち着かないと毎日音楽部屋で眠る俺に、一緒のベッドで寝ればいいとか言ってくるくらいだ。やっぱりアタシの身体が目当てだったのね、なんて冗談で返したけれど、内心は強引に誘われたらちょっと拒否できないかも、とドキドキしていた事も知らないに違いない。
一度断っただけで諦めてしまったベルナルドに少しだけがっかりしつつも、毎晩毛布にくるまってピアノの下で眠った。
そうしていつもベルナルドの創り出す音符の夢を見ていた。そして目が覚めてからは、夢の続きを歌う。
そんな日々。
当時は認めるのが怖くて、目を逸らして気付かないふりをしていたそれは、時が経つにつれていつのまにか失くした感情だった。心のどこを探しても見つからなくなってしまってから、ちょっと惜しかったかもなんて思うのは俺の身勝手だな。
握りしめた缶を振って中身の量を確認する。まだ半分近く残っていた。一人で飲むとどうにも酒が進まない。そのくせ酔いが回るのは早いんだ。
ああ、すまん、一人じゃない。お前がいたな、ともう一度今宵の相棒に謝って、お詫び代わりにと俺は歌い始めた。
曲は、少し古い、名作映画の主題歌だ。こんな夜に歌うにはもってこいの曲。
その映画はベルナルドが好きだと言っていたものだった。ベルナルドは意外とベタな恋愛映画が好きだった。奔放なのが魅力のヒロインと劇的な出会いで恋に落ちて、振り回されながらも共に笑い合い涙し、終盤で派手な喧嘩をして、それでも最後は愛を確かめ合ってハッピーエンド。そういうのがいいらしい。
なんか傷心のOLみたいな趣味だと俺が茶化すと、ベルナルドは大げさに肩をすくめてこう言った。
映画の恋愛はこうでなくちゃ。現実はそうそううまくはいかないからね。
たしかにその通りだった。映画みたいな恋なんてできっこない。
短い曲はすぐに歌い終えてしまって、俺は最後のフレーズだけを何度も繰り返し歌った。リフレインはダイニングを抜けてリビングへ響く。4回歌ったところで玄関の方を見ると、ベルナルドが立っていた。
「ジャン、来ていたのかい」
「おかえり、ベルナルド」
ただいま、と微笑むベルナルドはややふらついた足取りでこちらにやってくる。どうもどこかで飲んできたらしい。ベルナルドは自分で思っているほど酒に強い方じゃないのに、すぐにアルコールを摂取したがる悪い癖がある。
よろけて鉢植えに激突でもしたらパキラが可哀想だから、俺の方が立ち上がって迎えに行ってやった。
「どうしたんだい?来るなら連絡をくれればどこにも行かずに待っていたのに」
「んー、なんかちょっと、急にベルナルドに会いたくなって?」
「ああ、ジャン……!」
感無量の様子で声を上げたベルナルドは芝居じみた仕草で両手を広げて俺に抱き付いてきた。
今日はけっこう酔っているのかこちらに預けてくる体重がいつもより重い。けど不思議と酒臭くはなくて、ふわりと空気を孕んだ長い髪からはいつもの煙草の甘い匂いと、いつものベルナルドのとは違うコロンの香り。
どこかで嗅いだことあるような気もしたが思い出せなかった。
「寂しい思いをさせてすまなかったね。今日は朝まで付き合うよ、ハニー」
ぎゅうっと力を入れて抱きしめられる。ベルナルドと抱き合うのはすごく気持ちが良い。痩せぎすな腕に優しく束縛されるのや、触れ合う身体がしっとりと馴染む感じが心地良い。
ただ、腰を撫でてくる手つきがどうにもいやらしく思えるのは、俺の気のせいか。それともコイツの性分か。
別にいいけど、と酔っ払いの背中に手を回して背中をぽんぽんと叩いてやる。俺も随分大人になったよな、と思いながら、な。
「もちろん。今夜は寝かせないわよ、ダーリン?」
そう言ってベルナルドの肩に顔を伏せて俺はけらけらと笑った。頭の上でベルナルドが一緒に笑う振動が伝わってくる。
大丈夫。
あの時の切ない気持ちはもう思い出せないけれど、大丈夫。
今の俺は、ベルナルドをちゃんと愛してる。
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