少し遅れる、とベルナルドからのメールが届いたのは待ち合わせの5分前だった。
まったく、たまに駅前で待ち合わせなんぞという慣れない事をするとこれだ。いつも通り店に現地集合にするか、いっそ家まで車で迎えに行ってやれば良かった。だいたいアイツは、他の事に関しては時間にルーズな方じゃないのに俺との約束だけは妙に遅刻が多い。今までの例からして、少しと言ってきた場合、おそらく30分は遅れてくるだろう。
しかし、飲みに行くだけでいちいち30分程度の遅刻に目くじらを立てる事もない。着いたら連絡しろとだけ返信して、ネオンのちらつく街へと足を向けた。
こうやって甘やかすのが悪いんだともう何度も繰り返した自省が頭をよぎったのは既に送信ボタンを押した後だった。
しばらく、あてもなく夜の街をただ歩いた。
本当はどこか適当な喫茶店に入って時間を潰すつもりだった。もしくは雰囲気の良いバーでも見つかれば今夜の店をそこに決めてベルナルドを呼びつけるか。そうすればベルナルドが来るまで俺は先に飲んで待っていればいいし、アイツだって焦らず来られる。もっとも、ベルナルドは俺を待たせたところで一向に気兼ねなどしないのだろうが。
そう考えていたのだが、何軒かお誂え向きの店の前を通りながらも結局どこにも入らずにけっこうな距離をただ歩いていた。人口の灯りで昼間とそう変わらず明るい街は寒いけれど一人歩きにひどく優しい。
散歩のつもりでこのままもう少し歩いて、それからまた駅前に戻ってもいいか、とコートのポケットに手を突っ込んだ。その時。
歌が聞こえた。
風に乗って、空気に溶けて、でも決して何物にも混ざる事のない独特の旋律が。
それは記憶の奥底を揺さぶるような懐かしいフレーズで。
その声に聞き覚えがなければ俺は間違いなく星の一つも見えない都会の夜空を仰いでいただろう、これが神の声か、と。
辺りを見回すと少し先の大きな高架の下、歩道の途中に開いたやや広めのスペースでギターを弾いている男がいた。
持ち運べる程度の小さなアンプはあまり質の良いものではないのかスピーカーからは少しひび割れたエレキの音がする。けれどその軋んだ悲鳴さえ切ない嬌声のように変えるマイナーコードは、行き過ぎる車の排気音を少しだけ遠ざけるように響いていた。
ギターに合わせたかのごとく時折掠れる低音の歌声と、ゆっくりと弦をなぞる長い指を俺は何度も愛した。
それはベルナルドだった。
ベルナルドが、路上でギターを持って歌っていた。
高架下やトンネルなどにストリートミュージシャンが立つのは珍しくない。ここのように人通りの多い所で、特に週末ともなれば楽器を抱えた若者を良く目にする。
しかし、何故ベルナルドがよりによってこんな真似をしているのか。
寒い夜だったがそれでも数人は足を止めてベルナルドのギターを聞いている。俺との約束をすっぽかして何をやっているんだと呆れたが、愛用のレスポールを抱える見慣れたベルナルドの姿を見たら何だか怒りよりも笑いがこみ上げてくる。ああ、つくづく俺は奴に甘いな。そう思いながら遠巻きに囲む人々の中の、肩を寄せ合い手を握り合って立っているカップルの後ろあたりで俺もギターを弾くベルナルドを眺める事にした。
寒い夜にメロウなバラードを歌うベルナルドも良い。
そしてしばらく聞いて、気が付いた。そのバラード、さっきからどこかで聞いた曲だと思っていのだが。
なんてことはない、ウチの、CR-5の曲じゃないか。
原曲はもっとアップテンポのノリの良い曲で、ジャンのお気に入りなのでライブの時はセットリストに必ず入る。それをわざわざマイナーに変調し、更にアレンジしてあるからわからなかった。普通にバラードを選曲すればいいようなものだが、ウチの持ち歌にはバラードは少ないから俺がここに辿り着く前に歌い尽くしてしまったのだろう。ただの路上パフォーマンスだ、それなら別のアーティストの曲でも演ればいいものを。
どれだけCR-5を気に入ってるんだよ、お前。
俺の呆れた溜息が聞こえたはずもないが、その時まで俯きがちにスタンドマイクに向かっていたベルナルドがぱっと視線を上げた。
人の頭ごしにベルナルドと目が合う。
ベルナルドは俺がここにいる事に驚き、瞳を大きく見開いて。
それから、ゆっくりと微笑った。
薄い唇の端をわずかに持ち上げて、戸惑うように何度も速いまばたきを繰り返していったん目を逸らし、そしてもう一度俺の方を見た。
そしてその瞬間、ほんのわずかにベルナルドの声が震えた。一瞬だったので他の人間は気付かなかっただろう。
それはきっと、笑いを堪えたからだ。さっきの俺と同じ、なんだか妙に可笑しくなった、そんな感じで。それでもギターは一切ブレる事がなかったのはさすがだ。
ベルナルドは笑いを含んだ目で視線を俺から横にずらした。つられてベルナルドの視線の先を追うと、真っ白い大きな車がほんの近くの路肩に停めてあった。それもエンジンがかかったまま。
なるほど、そういう事か。
「コラ、悪ガキども。これは何の遊びだ?」
「あ!ルキーノ!」
「げっ!ルキーノ!」
案の定、車には運転席と助手席にイヴァンとジャンが仲良く乗っていた。
半分だけ下げられた車の窓ガラスを手の甲で軽く何度か叩くと、悪戯が見つかった子供のようにジャンは照れ笑いで、イヴァンはばつが悪そうな不機嫌顔で車から降りてきた。
「ベルナルドん家でポーカーしてたんだよ。三人で」
「んで、金賭けるかわりに一番負けの奴が罰ゲームって話になっちゃって」
「路上でギター弾き語り。ノルマ分稼げるまでな」
「ちなみに賭けの事言い出したのは俺じゃなくてイヴァンだから!」
「罰ゲームの内容決めたのはお前だろーが!」
お互いを指差して交互に言い募る。きゃんきゃん吠える小型犬みたいに責任を押し付け合わなくても、別に俺は教師じゃないんだ。怒りはしねえよ。
第一、それはベルナルドが浅はかなのだ。頭数にジャンが入っている賭けのテーブルなんて負ける確率が高いに決まっている。
「それで?哀れなギャンブラーはいくら稼がなきゃならないんだ?」
ジャンが答えた金額に、俺はぎょっとする。
オイオイ。鬼か、お前ら。ストリートでその金額を一晩で稼げるなら、他に何もしなくてもそれだけで食っていけるだろうが。
ガキの悪ふざけは限度ってものを知らなくて困る。
「あー、マジで俺負けなくて良かった。最後の方ヤバかったからな」
「そもそもイヴァン、ギターなんて弾けねーじゃん」
「ばっか、多少は弾けるっつの!お前と一緒にすんな!
……まあ、あんなのは無理だけどよ」
あんなの、と言ったイヴァンの視線の先では、孤高のギタリストが夜に向かって歌い続けている。そこにある闇の隙間に横たわる孤独を慰めるように。
よく知っているはずのメロディはフレーズごとに微妙に音程を変えて何度か繰り返される。これはおそらく今即興で作っているな。低音の声で綴られる主旋律はゆったりと落ち着いたリズムのままなのに爪弾くギターの音数はだんだん多くなってゆく。魂を揺さぶるようなロール。
CR-5のロックナンバー『Maria』、メロディアスバージョンってとこか。一人でストリートライブなんて恥ずかしい真似、まさに罰ゲームでしかないと思うのだが。ベルナルドの奴、意外と楽しんでやがる。
しばらく黙ってベルナルドの歌を聞いていたジャンが、ふいに吊り目を細めてふへへ、と可愛く笑った。
「俺、ベルナルドの歌、すげえ好き」
寒さで赤い頬をしたジャンはそう言って車の後部ドアにもたれ、上を向いて小さな声で歌い出した。白い息を吐きながらジャンが口ずさむ歌はベルナルドの歌と空気中で奇麗に溶け合う。原形をかろうじて留めている程度にはアレンジされた曲でもうまく合わせて歌ってしまえるジャンはさすがだ。少しずれるテンポが逆に心地良い。ジャンの歌はいつも心に深く沁みる何かがある。
そしてベルナルドの、優しいと表現するには少し苦く、けれど寂しいと言ってしまうにはあまりにも詩的な歌声。
そうだな、ジャン。俺も好きだ。ベルナルドの―――。
曲が終わり、まばらな拍手が周囲から起こる。ギターネックから手を離して軽く会釈するベルナルドの元へ、俺も大仰に拍手しながら近づいた。足を止めていた人々はそれぞれがまた夜の街の時間の中へと歩み出す。
ベルナルドは俺に向けて肩をすくめて苦笑して見せる。乾いた唇の表面が切れて血が滲み出していた。手を伸ばして親指でベルナルドの唇に触れ、赤く浮かび上がったその血を拭ってやる。痛っ、と小さく声を上げてベルナルドは顔をしかめた。我慢しろ。本当は舐めてやりたいところだが、ジャン達がいるからそうもいかない。
足元に広げて置かれているギターケースの中を覗くと思っていた以上の金が投げ込まれていた。ジャンが言った金額には全然足りていなかったが、一日でこれだけ稼げれば上々だろう。
そういえばコイツ、俺に「少し」遅れると連絡して来なかったか。律儀にノルマに達するまでここでやっていたら30分どころか俺は朝まで待ちぼうけだったに違いない。それでもちっとも悪いと思わないだろうベルナルドに、この野郎、と思ったがまあいい。俺がここを通りかかったのはまったくの偶然に他ならないが、良いものが聞けたから許してやる。
ポケットから財布を取り出し、札を数枚抜き出して口を大きく開けているギターケースへ落とす。これでノルマ達成だ。
「おい、お前ら!今日はベルナルドの稼ぎで飲みに行くぞ!」
振り返って車の前にいるジャンとイヴァンにそう叫ぶと、現金な奴らは口笛まじりの歓声を上げた。ジャンはそうだ!と言って携帯電話を出してどこかに電話する。おそらく相手はジュリオだろう。ジュリオも呼んでやるといい。でないと仲間外れにされたと拗ねるかもしれないからな。
ルキーノ、と呆れたように俺の名前を呟くベルナルドにウィンクで返事をしてやる。するとベルナルドは思わずといった感じで微笑みを零した。先程、歌いながら俺と目が合った時みたいに。
その笑顔と出会う、それだけで俺は何度でも恋に落ちるだろう。
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