雲隠‏‏‏‏

魔が差したと、でも言うのだろうか。
不意にその襖の奥を覗いてみたくなったのは。





鈍色の刃が振りかざされるのと、ラグトリフが襖を勢いよく引き開けるのはほぼ同時であった。
ギィン、と醜悪な音が響く。
突然の闖入者にも構わず振り下ろされた刃物はしかし、一瞬にしてそれを握りしめていた男の手元を離れて宙を舞った。部屋に飛び込んだラグトリフが横から掬い上げるようにして刃を弾き飛ばしたからである。高く飛んだ刀はくるくると回転して落下し、音もなく畳の上を少し滑って止まった。
刃渡り九寸五分の匕首を受け止めたのは、平常より懐に忍ばせている煙管であった。ただしそれは長さこそ一尺にも満たないが、普通のものとは違い吸い口から羅宇に至るまで全てが鉄で出来ている。

「困りますねえ。此処で刃傷沙汰は御法度ですよ」

亀甲紋様の刻まれた煙管を手元でくるりと回して、呆然とへたり込んでいる目の前の男の顔を覗き込んだ。そもそも刃物の類は全て階下で預ける決まりのはずだが、この男はどうやってかこっそり隠し持って座敷へ上がる事に成功したらしい。
ラグトリフはわざと平素掛けている色付きの眼鏡をちょっとずらして裸眼で男を見据える。至近距離でにっこりと微笑んでみせると男は忘我から立ち戻り、とたんに少し怯えた様子になった。趣味が悪いと評判の色眼鏡だが、これ掛けている時よりも素顔の方が人に恐れられる事が多い。商売柄、非常に不本意ではある。

「幸い、僕はこの見世の人間ではありません。どうです?本日のところはこのまま引き上げませんか?そうしたら僕も告げ口はなしにしますよ?まあ、嫌だと言うなら仕方ないですが」

そう言うと男はさっと顔色を失くした。引き上げないならば見世に突き出すという意味だったのだが、どうやら少し違う風に受け取ったらしい。情けない顔で何度も頷くと散らばった自分の着物をかき集めて腕に抱え、逃げるように座敷を飛び出していった。

ラグトリフはもう一度煙管を回して懐に差し込み、次に飛んで行った匕首と放り出されたままの鞘の両方を拾い、刃を白鞘の中に収めた。それからさて、と言ってつい先程白刃の切っ先に狙われていた人物を振り返る。緋襦袢一枚の花魁は最初から最後まで微動だにせずその場に座っていた。

「大丈夫ですか?ベルナルド」
「……どうして止めたんだ」

ベルナルドは背筋を伸ばして座ったまま、どこか冷めた目でラグトリフをちらりと見上げてそう言う。どうして、と問うたわりには興味のなさそうな倦んだ表情である。

「どうして抵抗しなかったのです?」

ベルナルドがあの男と心中したがっているようにはどうにも見えなかった。
もし閨の睦言として相手が心中話を持ち掛けてきたとしても、それを上手く受け流す程度の手管は花魁ならば当然持ち合わせているだろう。来世では必ず結ばれようという常套句が使われるのは、いつか必ず身請けするからと約束するのと同じくらい多いと聞く。どうして黙って刃の前に身を晒していたのか。
質問に質問で返すとベルナルドはつまらなさそうに自らの髪を撫でる。襦袢の袖がつうと捲れて毒々しい朱色に比べて痛いくらいの白さの腕が露わになった。

それ、とベルナルドは流し目でラグトリフの懐を示す。

「喧嘩煙管?」

ついさっき男の匕首を弾き飛ばした煙管の事だ。
総鉄製の煙管は煙草を飲むためではなく刃物に対抗するために作られた道具である。故に喧嘩煙管の名で呼ばれている。もちろん持ち手にもよるが、使いようによっては小刀どころか脇差くらいになら十分対等に渡り合える。

「お前はいつもそんな物騒な代物を振り回しているのか?」
「まさか。護身用ですよ」
「それにしては扱いが妙に手慣れていたな。そいつは相当活躍の機会があるようだ」
「因果な稼業ですので。まあ、それなりには」
「例えば、先程のような時?」
「いいえ。たまたま心中に行き合う事なんて、むしろ滅多にありませんねえ」
「どうして止めたんだ」

ベルナルドは同じ問いを繰り返した。その言葉に責める響きはなかったが、だからこそ一層重く感じられた。ラグトリフは虚空を彷徨うような瞳をしたベルナルドの前に膝をついて笑った。

「あの男が貴方の心中相手としてはふさわしくないかと思いまして。貴方が二世の契りを交わすにはあれは少々役者不足ですね」

本来なら、相対死とは抱きしめ合うようにしてお互いの胸を刺し合うものだ。あの男はベルナルドを手に掛けた後、その刃を今度は自身に突き差す度胸を持ち合わせていたのか、甚だ疑問である。
面構えも貧相でしたし、と付け足すとベルナルドは唇を薄く開いた。呆れているようであった。

「……そんな事は、俺が惚れていれば関係ないだろう」
「それはないでしょう。貴方の好みとはとても思えません」
「お前が俺の何を知っているって?」
「知っていますよ。そうですねえ、貴方の好みは役者のようにはっきりとした二枚目で、優しいようでいてどんな残酷な仕打ちも平気で出来る、強い男。そういうのがいいのでしょう?」
「見てきたような事を言うな」
「見てきましたから。ああ、それとあの男の太刀筋では到底一思いには死ねなかったでしょうね。おそらく半刻ほどは苦しんだかと」
「もういい。わかった」

溜息を吐いてベルナルドは肩の力を抜いた。両の手のひらを身体の後ろについて天井を仰いで目を閉じる。乾いた唇が、魔が差したんだよ、と呟いた。

「確かに惚れてはいなかったさ。けれど共に死のうと言われた時、ふいにこの苦界から抜け出して彼岸に逃げるのも悪くないと、そう思った」

ふふ、とベルナルドは嘲るように笑った。それは自嘲であったのかもしれない。目を閉じたままのベルナルドの白い手がこちらに向けてふわりと伸ばされる。蝶が舞うが如き動作だ。

「ああ、そうだ。いっその事、今お前がその刀で刺し殺してくれないか。お前の腕なら楽に死ねるのだろう?そうしたら、お前との来世を誓ってやるよ」

掠れた声で囁く度に眼前で青白い首筋に浮き出た尖った喉の骨が上下する。ベルナルドの薄い皮膚には骨ばかりが浮かび上がっていて、とてもその下に真っ赤な色をした血肉が隠されているとは信じがたいような白さだ。ラグトリフはゆっくりと目の前の薄っぺらい身体の胸元から顎のあたりまでに視線を何度も這わせて考える。

もし、刃を突き立てるのならば。
心臓よりも、この細い首筋がいい。
銀色の淫靡な刃で喉笛を突き差したら、噴き出す血潮で白い肌も真っ赤に染まる。その紅はきっと襦袢の緋色よりももっとベルナルドを美しく飾る事だろう。
血の気の引いた唇は、ゆるく微笑んでいると良い。

ラグトリフは伸ばされた手にそっと触れた。
ぴくり、と小指だけが別の生き物のように跳ねる。冷たい手は僅かに震えていた。
その細い手のひらの中に鞘に収めたままの匕首の白木の柄を押し付けて握らせる。ベルナルドが薄目を開けてこちらをねめつけるように見たので、ラグトリフはその柄ごとその手を両手で覆ってにい、と笑った。

「遠慮しておきます。生憎、僕の行く末は地獄ですので。貴方と同じ人の世に生まれ変わる事は叶わないでしょう」
「甲斐性なしめ」
「はい」

罵る言葉に笑みを深めると、ベルナルドは強い眼で睨みつけてきた。それから、ふいに意地の悪い笑いに頬を歪める。しかしそんな笑い方もどこか気だるく妖艶だった。

「残念だったな。実のところ、俺も死後は地獄行きが決定している身でね。だが、向こうで会ってもお前は相手にしてやらないよ。たった今、この俺を袖にしたのだから」

そう言ってラグトリフの手を乱暴に振り払ったベルナルドは、手元に残った匕首を一寸ばかり鞘から引き出した。しばらくその鈍く光る刃を眺めていたが、ふっと息を吐いてそれを鞘に戻した。キン、と馬鹿に澄んだ音がした。
次の瞬間には、ベルナルドはその白鞘の小刀を後ろへ放り捨てた。投げ捨てられた刀は敷きっ放しの赤い三ツ重ねの布団の上に着地する。褥の上では凶器はもはやその威力を剥ぎ取られ、ただ滑稽に横たわっている。

「まあ、いいさ。所詮生きるも死ぬも地獄なら、そう急ぐ必要もない。だろう、ラグトリフ?」

ラグトリフは黙って深く頷いた。
さっきまで、死の恐怖に震える手をしていたくせに。それともあれは生き地獄から抜け出せる期待に歓喜していたのだろうか。どちらにせよ、そんな強がりを言って笑ってみせる意地が、とても美しくて愛おしい。

そう思ったのは、その身を抱き締める事すらできなかった、懐かしい日々の一夜だった。





ラグトリフは、窓の縁に両腕を乗せてぼんやりと外を見つめているベルナルドの後ろ姿を少し離れた位置から眺めていた。
地味な紫紺の羽織の背中に垂らされた髪は相変わらず長いままだ。開け放たれた障子戸の向こうの宵空には翳りの一つもない真円の月が堂々と浮かんでいたが、ベルナルドは空を見上げてはいなかった。
楼主の座敷は奥向きにあるので通りの賑やかさを覗き見る事はできないが、代わりに風雅の限りを尽くして造られた見事な中庭を眺めるにはとても適している。
四季折々の草花が千千に咲き乱れる庭を見下ろしていたベルナルドが、急に庭に向けてその手を振った。
そっと庭を覗くと、ベルナルドにとっては満月よりも眩い花魁ジャンの姿があった。先程のあれは、彼がこちらに向けて手を振ってきた所だったのだろう。
ジャンは馴染みの上客に連れられて夜の散歩がてら庭に出て来たようだった。客に肩を抱かれて甘えるような艶っぽい仕草で寄りかかるジャンは、さすがに一本立ちから幾年もしないうちにいずれは呼び出しの花魁にとの声も名高いだけの事はある。
ジャンが禿の頃から可愛がっていたベルナルドは晴れて理想の華と咲いたジャンについて、哀しいような誇らしいような複雑な気分だと話していた事を思い出した。

ベルナルドの横顔をこっそり盗み見ると、意外な事にベルナルドは溺愛するジャンの立ち姿ではなく、その華を腕に収めて笑う客の方を目で追っていた。

その男はラグトリフにも見覚えがあった。確か、ジャンの水揚げを勝ち取った客で、どこぞやの大店の旦那だと聞いている。若くて見目が良く、しかも湯水の如く散財してもなお有り余る程の金持ちなどそうそういないもので、廓の女郎たちの間では大層人気だとか。
色男はベルナルドの視線を察したのか、ついとこちらの座敷のあたりを見上げてきた。とっさに、見つからないよう窓の横縁に引っ込んで隠れたのでラグトリフの存在には気付かなかったようだ。男は憮然と自分を見下ろしてくるベルナルドへ向けて片目を瞑って微笑んで見せた。

それは、高慢で魅力的で、そしてひどく酷薄そうな笑みだった。

ベルナルドは窓の桟に頬杖をついて男を睨み返し、

「ルキーノのやつ……!」

と、苦々しい舌打ちとともに毒吐いた。
その言い方があまりにも憎々しげであったのでラグトリフは堪え切れずに失笑してしまった。するとすぐにベルナルドがきっとこちらを睨んでくる。

「……何だ」
「いえ、何でも」

笑いながら返事をするとベルナルドは鼻白んだ様子でふん、と嘲笑を浮かべた。睨みつける瞳は昔と変わらない。無理して強がるところがこの人の可愛い所なのも相変わらずだ。
ああ、それと、男の趣味も、だな。
そう思ってラグトリフはまた声に出して笑った。


ベルナルドがいるのならば、地獄に行ってからも退屈せずにすみそうだ。


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