花散里‏‏‏

ラグトリフがその部屋の前を通りかかったのは実は偶然ではない。



まだ夜見世も始まらぬような夕暮れ前の頃合い、ちょうど妓楼の主に呼ばれ挨拶をしに行った帰りの事だ。

座敷の障子がほんの少しだけ開かれていた。

そこの座敷の花魁はまだ突き出しから二、三年だが既に何人もの馴染みの上客を持つそこそこに売れている男娼であった。職業柄よく廓の内外を出入りしているラグトリフは彼の事を、それこそまだ彼が禿であった時から知っている。しかし、まだ十代で骨格の出来上がっていない痩せた身体の少年を昔馴染みだという贔屓目なしに美しいと思う。


障子の隙間からは、文机の上に両腕を乗せ、その上に頭を伏せている花魁の姿があった。
臙脂の打掛けの、しどけなく撓んだ襟から覗くうなじの白さと、浮き出た脛骨が艶めかしい。

そして彼の周囲にはてらてらと墨の跡も真新しい文字が書かれた、くしゃくしゃの和紙が幾枚も散らばっていた。いずれも書き損じたのか、上質の紙は爪痕のような筋をつけられて塵芥のように転がるばかりだ。


障子の縁に手を掛けて遠慮なく引き開けた。


「文の返事は、まだ来ませんか?」


柔らかい髪を揺らせてゆっくりと頭を上げた花魁ベルナルドはそのままの体勢で首だけこちらを振り返った。


「女衒が何の用だ?妙な事をしたら人を呼ぶぞ」


冷たく言い放って睨みつけるベルナルドの目の縁は朱に染まっている。
両の目蓋も腫れて赤くなっていた。つい先程まで泣いていたのだろう。頬が少し濡れているように見えるのもそのせいか。
しかしベルナルドは赤い目元を恥じらいもしないで真っ直ぐにこちらを睨む。


「ちょっと野暮用でして。何もしませんから、入ってもよろしいですか?」


いつもの笑顔でそう言ったラグトリフに、いいよ、とベルナルドは気の抜けたような声であっさりと答えた。
お邪魔します、と軽く挨拶して、張り替えたばかりで瑞々しい青さの畳に足を踏み入れると後ろ手で静かに障子を閉める。
ベルナルドが、泣き腫らした顔を平気でラグトリフに見せるような気安さと同じで、ラグトリフもまたベルナルドの機嫌の上下など殊更気にする必要を感じていない。

ラグトリフが文机の前に座るベルナルドのすぐ傍へ膝をつくのと同時に、ベルナルドは机の上に置きっ放しだった書きさしの手紙を丸めて、あらぬ方へと放り投げた。


一瞬だけ垣間見えたその文面の最後には、「斯くお慕い申し上げ候へば」と書かれていた。


打掛けの裾を払い、こちらに向き直ったベルナルドは、足を前に投げ出して背にした文机に体重を預けるようにもたれ、そこに片肘を乗せて、それから自嘲の笑みを浮かべた。薄い唇が歪んだ半月型に引き伸ばされる、その表情を妖艶と表現してしまうには少し痛々しい。


「返事は一生来ないかもしれないな。きっと飽きられたんだ。
情けないね。間夫に捨てられる花魁なんて、ただの笑いものだ」

「どうでしょうか?貴方に惚れられるなどという僥倖を、男ならばそう易々と手放したりしないでしょうに」

「ふ、心にもない事を」


そう言ったベルナルドは天を仰いで目を閉じた。
無防備に晒された白い喉元の、くっきりと骨を浮かび上がらせた薄い皮膚につい視線が引き付けられる。客でもないラグトリフ相手にすら誘うような仕草を見せるのは無意識だろうか。だとしたら哀しい習性だ、と思う。
先程の、否定してほしくてわざと自らを卑下した言い方をする癖よりも、ずっと。



間夫とは、娼妓の情夫の事である。客としてではなく真に心を通い合わせて情を交わす相手、とでも言えばいいか。
しかし、年季奉公である花魁は自分の身一つも自分の自由にはならない。一日の休みすらない身であれば、間夫と逢う時間を作ろうとするとその日稼ぐはずであった花代相当の金額を自分で買い上げるしかない。これを身揚りと呼ぶ。
もちろん、間夫が客として見世に来てくれれば花魁の借金が増える事もないのだが、あまりそういった気前の良い間夫の話は聞かない。例え出会いが見世に登楼した客として、であってもだ。
ベルナルドの相手もその多い方の例の一つであった。

相手の男を一度見た事がある。たしかに、役者のように整った顔の、酷薄そうな笑いが似合う色男ではあった。しかし、他の男に抱かれて得た金で自分の身を購ってまで逢いたいと思うほどの男なのだろうか。逢えば時には金の無心さえされるというのに。
それとも身を売って金を得る花魁が逆に間夫に金を渡す事で、自分の情が真に誰の元にあるのかを伝えられると思うのか。


ふと、投げ出されている肉付きの悪いふくらはぎに触れてみた。
病的に青白い色をした足は柔らかい感触よりも季節に合わない氷のような冷たさばかりを掌に伝えてくる。ゆっくりとさするとベルナルドはぴくりと片眉をわずかに震わせたが、何も言わずに目を閉じたまま抑えた息を吐き出すだけだった。

先に言った、何もしない、の範疇から外れてしまったが、ベルナルドが咎める気配もないのでしばらく好きに撫で続けた。



「あの男のどこが良いのですか?」


そう尋ねると、ベルナルドは頭を上に向けた状態で薄く瞳を開けてこちらを見下すように眺めた。ラグトリフの唇が変わりなく微笑みを形作っているのを確認すると、首を元の位置に戻し今度は軽く俯く。
逸らした視線は畳上に散らばった、ただの紙屑と化した睦言のあたりを彷徨っている。


「最初に寝た時、お前の心まで金で買えるとは思っていない、そう言われた」


呟きとともに、まばたきで押し出された一粒の涙が湿った頬を滑り落ちた。
長い睫毛は濡れて一層濃く深く色付いている。赤く腫れ上がった目蓋は重そうだが、かえってそれが虚ろな色気を醸し出していて、彼の美しさを損なうには至らない。青醒めた美貌に鮮やかな目尻の朱と乾いた唇の紅色がよく映えている。

泣き顔が奇麗だというのは、実は損なのかもしれない。
自分の為にこんなに美しく泣いてくれるのならば、もっと泣かせてやりたい。男にそう思わせるような魅力を秘めた涙だった。


「それが理由で?」


なるべく静かに聞き返した。もっともどんな言い方をしてもベルナルドはそれがただの執着だと指摘されたと取る事はわかっていたが。
案の定、ベルナルドは気分を害したようで、何も言わず俯いて唇を緩く噛みしめている。


彼の耳に非難されたように聞こえるのは、彼のその答えが、寄る辺ない身が唯一自らで選んだものの理由としてはあまりにも頼りないとベルナルド自身知っているせいだ。
心の隅々まで探してもそんな他愛もない、まるで初冬に降る粉雪のように儚い閨の戯言しか見つけられないくせに、それでもこだわり続けている愚かさから目を逸らしたいから。だから他人の言葉に過敏に反応する。


しかしラグトリフは責めているつもりはないと弁明もせず、代わりにさっきよりももっと低い囁きを紡いだ。


「もし僕が、そんな男はやめて僕にしなさいと言ったら、貴方はどうしますか?」


そこで、ベルナルドはやっと顔を上げた。

真正面からこちらへ向き直って、最初は目、それから唇をゆっくりと微笑ませる。笑顔の作り方を教えるような速度で、完璧な形の表情を見せた。


そして足に触れたままだったラグトリフの手を鋭く払い除けて言う。


「お前が本気でそれを言うのなら、お前に惚れてやってもいいよ?」


それは拒絶の言葉であった。

廓の内側の稼業に従事している以上、花魁との関係は御法度である。それを捨ててでも、という選択肢はラグトリフには存在しない。そのくらいはお見通しという事だ。できやしないくせに、と嘲る表情に自尊心の色が華やぐ。
ラグトリフの方も、ベルナルドがこの程度の言葉で傾いてなどくれない事は承知していた。


ああ、そうだ、といつもの調子を取り戻したベルナルドが呟く。


「もう一つ理由があったな。誰に抱かれようが、惚れた男とじゃなきゃ感じない。そういう事さ」


お前の手では駄目だ、と言外に込めて放たれた言葉は、明らかにラグトリフを傷つける意図を含んだ台詞だった。

しかし、ラグトリフは満足げににっこりと笑った。


拒否される事がわかっていて、なおも口に出した。
こんな風に強がりを言うベルナルドの方が良い。それは随分と利己的な意見だけれども。
だが自分には、この苦界から彼を助け出す事も、彼の望む未来を与える事もできない。
ベルナルドが救われるためには彼自身が強くなるしかない。


「覚えておきます」


ラグトリフは平常浮かべている、気味の悪いと評される笑顔を深めて言った。

ベルナルドのどんな言葉にも、ラグトリフが傷つく事はない。だから安心して、いくらでも酷い言葉を選んでくれて構わない。

そしていつかベルナルドが、泣き顔よりも笑顔の方がずっと好きだと言ってくれる男に惚れる日がくればいい。
せめて、それまでは。





ベルナルドが不可解なものを見るような戸惑いを瞳に浮かべた時、障子の向こうから、文が届きんす、と声が掛かった。同時にラグトリフは立ち上がる。

さて、果たして待ち望んでいた文だろうか。


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