夜見世もとうに終わり、通りを賑わす清掻の三味線の音もすっかり遠くなった引け四ツを回った頃。座敷はいずれも行灯の明かりを静め、それぞれが巫山の夢に酔いしれる夜更け。
けれども高楼の一角は未だに闇を払うべく煌々と山吹色の灯を障子越しに滲ませていた。
妓楼の主人ベルナルドは長煙管を揺らせて、時折宵闇に紛れてここを訪れる彼の個人的な客を横目で睨んだ。
睨まれた方はそれを毛ほども気にする事なく丸い形の黒眼鏡の奥の瞳を糸のように細めてにっこりと笑う。上背のある身体を丸めて畳に両の手の指をつき頭を下げて、姿勢だけは神妙な素振りで言った。
「この度はお噂の『華』の突き出しがお決まりとの事で、誠にお慶び申し上げます」
ふ、と苦笑で返事をして、ベルナルドは長い髪をかき上げて後ろへ流した。自分の髪の根元から伽羅香の匂いが立ち上る。昼間、ジャンの聞香の遊びに付き合った時の移り香だろう。
目の前の男が言った『華』とはジャンの事である。
もうすぐ十五になるジャンは、幼い頃からこの廓で育ち、将来は名高い花魁になるべく教育をされた引っ込み禿だ。そのジャンが近いうちに色子として一本立ちする事が決まった。
見世としては長年金と労力を惜しまず育ててきた禿がようやくその恩を返す時を迎えたのだから、喜ばしい事ではある。その上ジャンはすぐに稼ぎ頭になれる器量を持っているのだから尚更だ。
しかし。
「それで、水揚げの具合はいかほどに?」
「それは相手の事を聞いているのかい?それとも値段か?」
「ああ、お値段は非常に気になりますねえ。貴方が珠のように大切になさっていた子の水揚げに一体いくら吹っかけたのか」
「人聞きが悪いな。ちゃんと真っ当な金額だよ。そうだな、せいぜい通常の倍程度さ」
「それはそれは」
くつくつと笑う男の顔にわざと煙をぶつけるように吐き出す。倍額でも安いくらいだ。
水揚げとはまだ男を知らない振袖新造が最初に身売りする事を指す。将来呼び出しという、大身世でも最高級の花魁になる事が期待される妓の水揚げには相当な値段がつく。更に立候補者が複数あった場合は競りのように天井知らずでつり上がる事もあった。
しかし、値ももちろん重要だが、ただ金を一番多く積んだ者がその新雪に踏み入れる事ができるというわけではない。床の良し悪しは初めが肝心だし、最初の男で恐怖心や嫌悪感を覚えてしまってはこれから何年も続く勤めに差し障る。
苦心の末に選んだ相手は廓の内でも、遊び方も金離れもすこぶる評判の良い色男だった。まだ正式に日取りも決まったわけではないため、当人とは直接会った事はないのだが、自分より若い男だと聞いている。歳の割に随分と遊び慣れているらしい。水揚げもこれが初めてではないそうなので滞りなく上手くやってくれるだろう。
お披露目の儀も盛大に執り行う準備が進められており、見世としては万事が順調であった。
しかし。
漆の朱が鮮やかな煙草盆の端に煙管の雁首をカンと打ち付けた。わずかに舞った灰がふわりと下に落ちる。何気なく指でなぞると脆い灰屑は畳の目に白い跡を残した。
眼球はそれを眺めてはいたが、ベルナルドの意識の上でその時見ていたのは昼間目にしたジャンの細い足であった。
廓では、娼妓は真冬であっても足袋を履く事は許されない。それはまだ客を取らない新造や禿も同様である。緋襦袢の裾から氷の如く冷えた真っ白い足がすっと覗いていて、その甲には幾筋も青醒めた血脈の管が浮き出ていた。
冷たい足先を温めてやりたくて掌でそっと包み込むとジャンは、あったかい、と言って無邪気に笑ったが手の中の皮膚のその内側まで熱を与える事は到底できなかった。ほっそりとした形の良いジャンの足の爪先まですべて、これからは数多の男を悦ばすためだけの道具になるのだ。
知らず、煙管の吸い口を強く噛み締めていた。
ジャンがここに来た当初からこの時が訪れる事はわかり切っていたはずだった。
それに、ジャンを売り物として扱うのは他ならぬ自分だ。
ああ、けれど、ジャンの睡蓮の穢れなき白さに似た愛らしさも、金と男達の欲望に翻弄されるうちにやがて失われてしまうだろう。この一抹の寂寥はそれを惜しむ気持ちがあるからか。
それとも、今更になってジャンを独占したいと思い始めている?そんな、なんて虫の良い。
だがそれなら。いっそ。
突然、煙管が引き抜かれた。
代わりに唇の間に硬い指が無遠慮に差し込まれる。
目の前の男の存在を忘れていた。男はいつの間にかベルナルドの真正面、ほんのすぐそばまで距離を縮めてきていた。行灯の位置加減によって大きな影がベルナルドの上を支配する。
男は顔を近づけて、底の見えない奇妙な笑みを崩さずに言った。
「いっそ、彼を連れてここからお逃げになりますか」
「な……っ!」
足抜けは禁忌だ。それが廓の掟である。
一妓楼の主人といえども娼妓の足抜けに加担するなど、許される事ではない。必ず追手がかかる。
「本当は誰にも触れさせたくないとお思いなのでしょう?」
動揺するベルナルドの耳元に誘惑が低く囁かれる。
「貴方がそう望むのならば、僕がお手伝い致しますよ」
無理だ、逃げ切れるはずがない。
捕まれば二人とも厳しい仕置が待っている。
ベルナルドには死んだ方がましだと思える程度の拷問が。
ジャンには、安い花代で最低の客を取らされ続ける地獄のような人生が。
理性では分かっていたが、それに反して胸の動悸はぐんと早くなり、どくどくという自分の心臓の音が鼓膜にうるさく響いた。
もしも、逃げ切れたならば。
ジャンと一緒に。
誰も知らない場所へと二人だけで。
束の間、水蜜桃のような甘い夢が、蛤の見せる幻のように眼前に浮かび上がった。
しかし。
もう一方の身勝手な夢が同時に顔を出す。
ベルナルドは男の、光を吸い込むばかりで一向に反射しない不思議な色合いの銀の髪を掴んで自分から引き離した。舌で男の指を口の中から追い出してからふ、と空気を吐き出すようにして笑う。皮肉な笑みを浮かべてもきっとその誘いに心が揺れた事は見抜かれているだろうと思いつつも口の端を歪めた。
「冗談だろう。あいにく激情に任せて危ない橋を渡るほど若くはないよ」
「そうですか。まあ僕はどちらでもいいんですけどね」
「だいたい、お前がそれを問うか。昔、俺がここから連れて逃げて欲しいと泣いて縋った時は冷たく突き放したくせに、今更」
「残念ですが今ならともかく、あの頃の僕はまだ駆け出しでそんな力はありませんでしたので。けど、それからたった数年で一介の色妓だった貴方が妓楼の跡取りになっていた時は驚きましたよ。
一体どんな手を使ったのか、貴方は未だに教えてくれませんしねえ」
「期待するほど大した事はしていないよ。ちょっとした策略と、あとは運だけさ。むしろその後の楼主としての経営手腕を誉めてほしいね」
「それはもちろん、お見事です」
「俺は八徳忘れた罪深き忘八だからな。せっかく後々大金を稼いでくれそうな蕾を己の手で枯らすような真似はしないよ」
忘八と書いて「くつわ」と読む。これは妓楼の主人を指す言葉である。仁義礼智忠信孝悌、人として生きていく上で大切なこの八つの徳を失くした外道という意味だ。人を売り物にして破格の大金を儲ける稼業の主なのだから当然だろう。
それに地獄の沙汰も金次第という言葉があるが、廓という処は地獄よりもずっと、人情でも信心でもなく金がものを言う世界である。
それは我が身をもってよく知っている。
また、ベルナルドには先程目の端をちらついた、浅はかで身勝手な夢があった。
黄昏時、薄暗い夕闇の中。
禿、振新番新、提灯持ちと傘持ちや男衆を引き連れての花魁道中。
金棒のシャリン、シャリンと鳴る音は、現の世を極楽浄土へと誘うかの如く。
道中の中心のジャンは三ツ重ねの仕掛けを纏い、八寸高の駒下駄でゆるりと外八文字を踏んで浮舟を漕ぐように、ゆらりゆらりと練り歩く。その姿はこの世のものとも思われぬ美しさ。
白魚のような細い手を肩貸しの男の肩に乗せて歩むジャンは、媚びるような口元で笑い、全ての男達を見下す目で嗤う。
その艶やかな目が見たい、それだけの為にジャンを苦界へと突き落とす。なんて救いがたい男だろう。
「ジャンなら間違いなくこの国随一の傾城になれるだろうね。俺なんかとは違って」
「それでも貴方の打掛け姿を最初に見た時は、夜桜よりも美しいと思いましたよ」
「花魁としての売上は今ひとつだったけどね」
「それは失礼ですが、あの時の貴方が悪い男に引っかかって、散々貢いでいたせいではないかと」
「……嫌な事を覚えているな」
「ええ。騙されてボロボロになっていく貴方も奇麗でしたので」
「もういい。止めてくれ」
演技ではなく心から嫌そうな表情で溜息をつくと、男は心得ました、と笑った。この男と昔の話をするのはこちらの過去を知られているだけにどうも分が悪い。
笑う男は、ベルナルドが見慣れたいつもの笑顔で、そっとベルナルドの手の上に自らの手を重ねた。その手に一瞥をくれてから男の顔を流し目で見る。
その下心はベルナルドも同じだ。大門が閉まった後にこの男を自室に招いた時からの予定調和である。
男の大きな手に導かれるようにゆっくりと身体を横たえる。
畳に広がったベルナルドの長い髪を掬って口付けた男は、伽羅ですね、と言った。
「八徳なんてお歯黒溝にでも捨てておしまいなさい。ご安心を、僕も同罪です。
僕も貴方と同じ、こちら側の人間ですから」
女衒ラグトリフはそう囁いてまた笑った。
ここは花街。ここは嘘と真が入れ替わる、此岸と彼岸の挟間の国。
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