Prison break‏

幸運な事に、マフィアという因果な商売につきながらも俺は今まで前科のつくようなヘマをやった事もなければもちろんムショにぶち込まれた経験もなかった。

そして不運な事に、明らかに何者かの陰謀によって現在進行形で人生初の投獄生活を経験中である。





「やあ、ルキーノ」

呼び止められて振り向くと、俺と同じような白と紺の縞模様の一張羅を着た男が立っている。

俺よりいくつか年上の次席幹部の、いや数日前に筆頭幹部の座についたベルナルドは振り返った俺と視線を合わせてから小さく笑った。その声こそ聞き慣れたいつもの落ち着いたベルナルドのものだったが、薄汚れた壁にもたれる姿はデイバンの町で見るよりもずっとくすんでいた。

「よお。どうした?暇そうだな」
「まあね。塀の中で唯一味わえる自由は決済書類や請求書からの解放だからな」
「そりゃ何よりだ。せいぜいゆっくり休んでくれ」
「電話も鳴らないしね。外よりもずっと安眠できるよ」

肩をすくめたベルナルドの眼の下にはう っすらと隈がある。どこが安眠だ。

だいたい、暇そうだと言ったのは冗談で、コイツは外との繋ぎ役や、塀の内外の情報収集、果ては囚人間の人間関係や組織の統率にまで抜かりなく目をやっている始末だ。俺達幹部の中では一番忙しいに決まっている。
だが、それにしたって、と背景の灰色の壁に溶け込みそうな顔色の男を眺める。
俺が知っている、俺よりも長く幹部をやっているベルナルドという男は、有能な秘書官のように、冷徹な作戦参謀のように、いついかなる時も左右対称の微笑みを浮かべられる、そんな男だった。そつのない鉄壁の表情で常に他人と一線を画する、そういう男だと思っていた。
それに比べて、今はずいぶんと余裕のない笑顔だ。多忙さと山積する厄介事のせいで疲れが出ているのだと言われればそうかもしれないが。
いつもと変わらず完璧に組織のやるべき「仕事」をこなしているだけに、目の前の虚ろな笑い方は妙に違和感がある。


そうだ。仕事と言えば。
たしか今日はコイツ、弁護士との面会日じゃなかったか。

「おい、ベルナルド、」
「そういえば、確かな筋から仕入れたごくささいな情報なんだが」

俺の言葉を遮ってベルナルドが歌うような軽やかな声で言う。

「……何だ?」
「シャワー室はこの時間が一番空いているらしいよ」

何だそりゃ?くだらねえ。
そう吐き捨てて舌打ちしかけたが、ベルナルドが意味深に片眉だけを上げて苦笑するのを見て、思い止まる。

あー、はいはい。そういう事か。

「それはまた、有力なネタだな」
「ご一緒にどうだい?グレゴレッティ君?」

ベルナルドが弁護士を介して得たであろう外の、デイバンの様子。それは俺にとって今もっとも知りたい重要な情報である。ベルナルドもそれは承知のはずだが、こんな何もない廊下で幹部二人が立ち話など、何か企んでいるのかと疑われては面倒だという事だろう。実際企んではいるのだが。
それに気付かなかったのは俺の落ち度だ。どうやら俺も人の事は言えない程度には余裕がないらしい。

ひきつった笑いで俺は答える。

「もちろ ん、喜んで。ドン・オルトラーニ」

しかし、なんでよりによってシャワー室だ。
他になかったのかよ、このクソ眼鏡。
野郎二人で連れ立って風呂って、どこのホモカップルだよ。

これみよがしに腰でも抱いて歩いてやろうかと思ったが、止めた。そういう自虐的な冗談は俺の趣味じゃない。まあ、コイツの性には合っているだろうがな。

今度こそ盛大に舌打ちして歩き出す俺の横で、ベルナルドは肩を揺らせて笑った。








カビの臭いと排水溝から上ってくる下水の臭い。水垢のこびりついたタイル張りのシャワー室はたしかに人が少なかった。
バスルームなんてそんな良いもんじゃない。大して広くもないフロアの壁にシャワーヘッドとコックが等間隔でくっついているだけで、仕切りも何もない。あとは端に洗面台と鏡が何セットか。ここを素っ裸の男達で空間を奪い合うようにしてひしめき合って使うのだから、当然空いている方がありがたい。

脱衣スペースでくたびれた囚人服を乱暴に脱ぎ捨てる。周りはど うせ小汚い野郎ばかりで、気を遣わなくていいのはたしかだが全く脱ぎ甲斐ってものがない。隣を見るとベルナルドは脱いだ服をきちんと畳んでいた。几帳面な奴だ。
そのままタイルの床に足を踏み出そうとするベルナルドを呼び止める。

「おい、眼鏡を外し忘れてるぞ」

素っ裸に眼鏡だけって、相当に間の抜けた姿だ。
だがその間抜けな男は、何を馬鹿な事を、といった風な呆れた顔で振り返って言った。

「外したら見えないじゃないか」
「見るもんなんかないだろ。それとも男のケツを鮮明に見たいのかよ?」
「それはむしろ目を逸らしたいところだな。でもね、」

そこで言葉を切ったベルナルドは眼鏡を外して、突然接近してきた。裸の胸が触れそうな位置で、ぐっと顔をこちらに近づけてくる。

「俺の近眼をなめるなよ。眼鏡なしだとこの距離じゃなきゃお前の顔だってはっきりと見えないんだ」

わずか15センチほどの近さでベルナルドが目を細めて笑う。フレームを取り除いただけなのにまったく知らない人間のように 印象が変わった。冷酷で非情そうな瞳。どこか近寄りがたい雰囲気。

近くで見ると、割と美人だな。
そんな感想を抱いたが、思ったままそう口に出したら口説いていると取られそうだ。この格好じゃ洒落にならない。

「……威張る事じゃねえだろ」
「それもそうだな」

滅多に目にする事のないベルナルドの素顔にたじろいで反応が一拍遅れた。だがベルナルドはあっさりとした返事をして身を引き、眼鏡をかけ直した。
まあ、全裸で滑って転ぶよりは裸に眼鏡の方が間抜けさ加減もいくらかマシか。


今度こそシャワーヘッドの一つに向かって歩み出すベルナルドを見送る。

それにしても、ほっそい背中だ。
コンプレートを着たベルナルドを痩せていると思った事はあるが、浮き出た肩甲骨を見て改めてそう思った。身長は俺とそう変わらないのに厚みが全然違う。おそらく骨の造りから根本的に違っているのだろう、と突き出した腰骨の幅から推測する。
だが若干頼りない感じは否めないものの、腕や太腿には細いなりにきれいに 筋肉が乗っていて、それが手足の長さと相まってむしろバランスが良い。薄い肩と腰の鋭利なシルエットと引き締まった小さな尻が知的でスタイリッシュだ。


……そうじゃない。俺はコイツのケツを眺めるためにここに来たわけじゃない。
てか、尻に知的って何だよ、俺。アホか。


ベルナルドの右隣に立ってコックを力強く捻る。固定式の短いシャワーヘッドから勢いよく冷水が吹き出した。
そう、冷たい水だ。さすがはムショ、湯なんて上等なものは囚人には不要というわけだ。今の時期はこの冷たさが気持ち良いくらいだが、冬はどうするのだろうか。寒くなったからといってこの水が湯に変わるなどという温情は期待できそうにないのが。
ふとそんな疑問が頭をよぎるが、俺にとってはどうでもいい事だ。季節が変わる頃までここに居る予定は当然ない。

水音に紛れて、ベルナルドが低い声で今日聞いてきたばかりの外の様子について話し出す。むろん、念の為イタリア語で。世間話のように何気なく呟かれる言葉に反して内容は深刻だった。知 りたいと望んだくせに、聞いてしまうと今度は何もできない今の状況に気持ちだけがただ焦る。
一刻も早く戻らなければならない。
しかし、そのための頼みの綱が。

思わず唸るような溜息を吐くと、隣で同じく冷水を身体に浴びながらベルナルドが俺の危惧を見透かして笑う。

「ジャンなら心配ない。信じてくれていいよ」

ジャンの名前を口にした時だけベルナルドの声が少し明るくなった。だが俺はその言葉には頷かない。前評判だけで人を判断するほど俺は薄っぺらな男ではない。
ツラもブロンドも極上。しかしその中身を信用するには今一つ決定打が足りないな。
別にベルナルドが手放しでジャンを信頼しているのが気に食わないってわけではない、はずだ。

「そういやジャンが風呂を嫌がる理由は、身の危険を感じて、ってヤツか?」
「……たしかに、ムショの中じゃジャンの姿はけっこう目を引くけどね。ブロンドはホモに狙われやすいし」
「瞳がブルーなら完璧だったな。あんなのが裸で飢えた野郎どもの中ウロウロしてたら 、下手すりゃ公開レイプだろ」
「いや、そうでもない、かな。ジャンの風呂嫌いはただ面倒だからだよ。あいつはああ見えてそういう所は要領がいいからね」

俺と違って。

そう続きそうな口ぶりに思わずベルナルドの方を向くと、ベルナルドは自分の眼鏡を外してずいと差し出してきた。

「……何のつもりだ、これは?」
「ちょっと持っててくれ。やっぱり邪魔だ」

今までちまちまと身体を擦っていたベルナルドは俺に眼鏡を押しつけて、ようやく頭からシャワーの水を被った。目を閉じて濡れた両手で水の滴る髪をかき上げる仕草を、俺は仕方なく太いフレームと分厚いレンズの不細工な眼鏡を片手に見守る。
コイツ、自分もそこそこ目立っているという自覚はあるのか。さっきから妙な視線を集めているような気もするのだが。

当然だが、ムショには男しかいない。
しかも柄もタチも悪い野郎どもが一つの檻に押し込められた特殊な環境だ。
レディのいない世界など本当はご免被りたいところだが、皮肉な事に俺はこの単一性で構 成された集団でうまくやっていくのが得意な方である。男だけの集団という点で言うならハイスクールの寮もカレッジのクラブも似たようなものだったし、事実そこでも俺はその中でも常にヒエラルキーのトップにいた。
こういうのは性格であり、性質だ。見た目や体格は実はそこまで重要な要素ではない。

そういった意味でベルナルドは、俺とはまったく逆なのだろう。ここではひどく生きにくそうに見える。
一時期軍隊にいた事もあると聞いた。果たして大丈夫だったのだろうか。そう疑問に思わずにはいられないが、さすがに本人に訊ねるのは憚られる。何がどう大丈夫なんだと聞き返されても困るし、それになんだか予想以上に怖い答えが返ってきそうだ。

「シャワー室はこの時間が一番空いている、か……」

呟いた俺を、ベルナルドが横目で見遣る。細めた目は視力が悪いせいだろうが、切れ長の瞼の下で眼球がすうっと動いて俺を捉える様は悪くない。見事な流し目だ。さっき間近で見た時も思ったのだが、ベルナルドの瞳は奇麗な緑色をしている。

透けるようなアップルグリーンの瞳。俺の好みの色だ。
いや、あくまで瞳の色だけ、な。

「よし。明日はジャンの奴も連れて来ようぜ。あの薄汚れた犬っコロ、押さえつけてシャンプーしてやる」
「犬っコ……。名案だけど、嫌がりそうだなあ」
「知らん。強制連行だ。手伝えよ、ベルナルド」

ああ、と笑いながらベルナルドは頷いた。それから一呼吸置いて思い出したように、くっくっとまた笑い出す。こいつはジャン絡みの話だと嘘みたいに明るい顔をする。そんな表情もあまり見知ったものではなかったが、ここに収容されてからこっち、平静を装おうとして失敗したような暗い顔に比べたら、新鮮で悪くない。
いつもそんな風に笑っていれば良いのに。いや、良いというのは、一般的に考えてという事で、深い意味などない、と言い訳のように頭の中だけで呟いた。

ジャンの能力を完全に信じきれはしないが、それでも期待はしている。ムショなんて馴染めようが馴染めまいが、長居したい場所じゃない。
そうだ。こんな女なんて目にす る機会もないような所に閉じ込められているから、裸の背を軽く折り曲げて笑い続ける年上の男が、やけに可愛く見えてしまうのだろう。そうに違いない。




笑い過ぎだ、と苦笑して先程押し付けられた濡れた眼鏡を突き返す。
握りっ放しだったベルナルドの眼鏡は俺の体温が移って掌の中で生温くなっていた。


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