A private opinion‏‏

基地の床は白とは程遠い。
建設当初は白い素材で造られていたのかもしれないがここを使用する誰もが床の白さに頓着しなかったのだろう。無遠慮に踏み荒らされた床は腐敗した土の色が染みついている。
だが、私もそれでいいと思う。あまりに奇麗すぎるものに私は心惹かれない。



通信部の資料室。そこの扉もまた倦み疲れた灰色をしていた。
駐屯地は全てがそのようなものだ。ここに限らず、おそらく全世界共通で。
軽いノックの後ノブを捻って押し開けると、扉は大仰な悲鳴を上げて開いた。埃臭い部屋の中に探していた人影を見つけた。


「ここにいましたか。探しましたよ、オルトラーニ軍曹」


探し人は備え付けの硬そうなソファーに横たわっていた。片方の肘掛けに頭を預け、その反対側からは長い足をはみ出させて軍靴の踵で年季の入った分厚いファイルを足蹴にしている。
彼はいかにも億劫といった態でこちらを仰ぎ見た。


「冷たいな。同期のお前までそんな他人行儀な呼び方をするのかい?」


いつもよりもややハスキーな声だ。

彼、ベルナルド・オルトラーニと私はたしかに同じ時期に入隊した。3か月の訓練期間の後ベルナルドは通信部に配属され、それからわずか半年で異例の昇進を果たし現在軍曹の地位にいる。一方、私はと言えば新兵としてはごく普通の二等兵である。
特例には黒い噂がつきものだ。彼もまた不当な方法でその地位を買ったと口さがない連中の誹謗の種となっている。

渦中の軍曹殿はかさついた唇を少しだけ横に広げた。
それは一般的には微笑と呼ばれるものであったのだろうか。しかし彼のそれをそう表現するには、私はいささか芸術性に欠けていた。


「それで?こんな所まで追いかけてくるほどお前は俺に夢中だったのか?ここは部外者立ち入り禁止だよ」
「期待通りに熱烈な想いを告白出来れば良かったのですが。残念ながら違います。貴方を呼びに来たのですよ」
「おや、ついに天国から特等席が空いたと知らせが入ったのかな?」
「いえ、貴方は今日の配食当番です」


豚の餌でも食ってろ、とベルナルドは似合わないスラングで吐き捨てた。起き上がるつもりはないらしい。

ベルナルドにつきまとう中傷は事実無根の悪口に過ぎないと思っていた。命令系統の序列で言うところの彼の直属の上官にあたる中尉がベルナルドのことをいたくお気に召している事は知っていたが、彼の昇進はまごうかたなき彼自身の実力であると信じていた。
実は彼にまつわる逸話はもう一つある。それは、入隊時のペーパーテストでベルナルドは破格の点数を叩き出したらしい、というものだ。それこそ士官学校卒のエリートですらそうそう解けないような問題をも、二十歳前の、大学も出ていないこの青年は易々と解答して見せたと聞く。
どこまで本当かわからないような話だが、信憑性と言うならどちらも変わりはない。そしてどちらが正しくても私には特に影響がない。ならば後者の方が多少は面白いと思ったのだ。

だが、今日その認識を改めてもいいかもしれない。
ソファーに寝そべって軽く眼を閉じているベルナルドの軍服は上下ともにボタンが全て外されていて、露わになった肌には情交の跡がくっきりと浮かんでいた。常時掛けている眼鏡は今は彼の顔の上には見当たらず、代わりに気だるさがそこを支配している。


「噂は真実だった、というところでしょうかねえ」


私がからかうようにそう言うと、ベルナルドは再び目を開けてこちらを睨みつけた。
横目で睨んではいるが、別に怒っている様子ではない。そういえば、彼が怒るところを今まで見た事がない。


「失礼な。俺はそこまで自分を安売りするような男じゃない」


言いながらベルナルドは自分の足を乗せていたファイルの山を蹴とばした。紙の束が崩れるのと同時に大量の埃が扇状に舞い上がる。
ズボンのファスナーすら下ろされているのに、編上げの靴だけは両足ともきっちりと紐が結んであるのが何だか可笑しい。


「それは失言でした。ならば、この状況は何と?」
「あの人は俺の恋人さ」
「恋人!それではこれはお努めではなく逢引だったのですか」
「わかってもらえて嬉しいよ」
「はい。よくわかりました。では、軍紀違反ですね」
「……なかなか笑えるジョークだね、フェルフーフェン」


ちっとも笑っていない声でそう言ったベルナルドはゆっくりと上体を起こした。
ジョーク、その通りだ。告げ口するつもりはない。だが敢えて黙って笑顔を作るだけに留めておいた。
ベルナルドは兵士にしてはやや長めの髪をかき上げて、その辺りに、と適当に床を指し示した。


「眼鏡が落ちていないか?悪いけど取ってくれ。よく見えないんだ」


たしかに床にはいつもの見慣れた黒い縁取りの眼鏡が転がっていた。ガラス製品なのに粗雑な扱いを受けているそれを拾って軽く埃を払い、ソファーから動こうとしないベルナルドの方へ持って行ってやった。
差し出すと彼は、サンクス、と言って、眼鏡ではなく私の手首を掴んだ。引き寄せられるままに身を屈めると、ベルナルドは手首を掴んでいるのとは逆の手を伸ばして私の後頭部の髪に指を差し入れてくる。次の瞬間には唇が重ねられていた。

触れ合ったベルナルドの唇は見た目通り乾いているのに、絡まる舌はくちゅり、と湿った音を立てるのが不思議だ。
離れるまでのほんの数秒の間、そんな事を考えていた。

唇は離されたが、未だに鼻先が触れ合う程の距離で、焦点の合わせづらい視界の中ベルナルドが囁く。


「口止めだよ。これでお前も共犯だ」


ベルナルドは暗い目をしていた。それが彼らしい、と言えば初めて彼を怒らせる事ができるかもしれない。本質というものを大抵の人は隠したがる。彼の場合は特に。
けれどそこが私は嫌いではないという事も一緒に告げたらどうだろうかと想像しかけて、思考にブレーキをかけた。それこそ自分らしくない飛躍だ。おそらく共犯という言葉の甘美さに誑かされているのだろう。

ベルナルドは私の次の反応を待っている。その探るような視線が心地良い。
自分はサディストではなかったはずだけれども、と思いながらも私は微笑みを浮かべた。


「今日の当番、代わって差し上げます」
「……は?」
「配食当番ですよ。ああ、お礼は先程のキスで結構ですから」


驚きにぽかんと口を開けたベルナルドの顔に、すっかり忘れていた眼鏡をかけてやる。それでようやくいつものベルナルドになった。やはり彼の顔には眼鏡がないと何となくおさまりが悪い。
さて、と立ち上がって出口へと向かった私の背中に、ベルナルドは小さな声で、すまない、と呟いた。

何故彼が謝るのだろう、と一瞬考えてすぐ、私を疑った事に対してだと思い至った。

扉の前で私は振り返る。


「ベルナルド、一つ言い忘れていました。豚さんって意外とグルメなんですよ?」








少しだけ昔の話をしよう。

入隊後の訓練期間中の3ヶ月間、私とベルナルドは同室であった。二人部屋である。

初対面の彼は礼儀を欠かない程度、一分の狂いもなくそれ以上でもそれ以下でもない愛想の良さで名乗り挨拶をした。それから私の名前を聞いて、失礼だが、と言ったのでてっきりラグトリフ、というパズルのピースを少し嵌め間違えたような響きの名についての疑問だと思い、もう何度も繰り返したエピソードを語る準備をした。
しかし続けて彼が、君は何人なんだい?と聞いてきたので拍子抜けしてオランダ人でした、と素直に亡命国を白状してしまった。
過去形で言ったのは無意識であったが、それこそ私がかの国に何ら執着を覚えていない証だろう。私はあの国を捨てたのでも失くしたのでもない。初めから私のものではなかったのだから。

それよりも変人の親父を罵るチャンスを一回逃した事の方が残念だった。


ベルナルドは初日の訓練を見事にそつなくこなした。私は従軍するのは初めてではなかったのでこんなものだろうと深く考えずに与えられた命令に諾々と従った。

そして初日の夜、決められた就寝時刻間際になってベルナルドが、昼間の凛とした良く通る声ではなく弱々しい小さな声で、フェルフーフェン、と呼びかけてきた。


「悪いが、灯りをつけたままでも構わないかい?真っ暗だと眠れないんだ」


真っ暗だと眠れないとはどういう意味だろう?
よく理解できなくてベルナルドを見返すと彼は何故か恥じ入るように床の方へ目を逸らした。透明なアップルグリーンの瞳は伏せられると深い新緑色に変化する。ベルナルドが恥ずかしがる理由もまたわからなかったがとりあえず、ええ構いませんよ、と返事をした。灯りがついていてもいなくても、私が眠るのにまったく支障はない。

それを聞いてベルナルドは目に見えてほっとした顔になって、ありがとうとおやすみを続けて言い、ベッドサイドの丸い小さな白熱球のスイッチを入れた。私がメインライトを消すと同時にベルナルドは眼鏡を外してベッドに潜り込んだ。
同じように私も反対側のベッドに入り、目を閉じる。目蓋の裏には普段なら見ないようなカラフルな光の雲のようなものが次々と浮かんでは流れ、消えてはまた浮かび上がった。つけっ放しのライトのせいだろう。それをついつい目で追っているうちに段々眠気に誘われた。

なるほど、彼はこれを見ないと眠れないのだ、と思った。けれど恥じ入る理由はやはりわからなかった。
その夜は、この世に存在しない色の絵の具を使って象を描く夢を見た。




ベルナルドと私は時間をかけて親しくなっていった。
私は世界中のどこにも帰る国を持たない。しかしそれを苦痛に思った事はない。
ベルナルドはイタリア系だがこの国で生まれ育ったそうだ。だが異邦人の私よりも彼の方がよっぽど帰郷すべき土地を希求しているようだった。

ベルナルドは身長こそ高いが横幅に関してはぺらぺらで華奢だった。体力がないから注意しなければ、と自分で言っていた矢先、行軍訓練中に倒れて医務室へ運び込まれた事もあった。運んだのは私だ。抱き上げた時に浮き出た背中の骨が腕に当たって痛かったのを覚えている。

必要以上に体力を要する訓練以外では、手先も器用で何より頭脳明晰なベルナルドは群を抜いて出来が良かった。
若く優秀で、おまけに聖堂の彫像のような整った顔を持つ青年はあまねく上官達に気に入られ、当然のように同輩達からは敬遠された。彼はこの訓練期間中ついに私以外の友人を作らなかったようだ。もっとも私の方にもベルナルドの以外の人間が近づいてくる事はなかったが。

二人でいる時、ベルナルドはとても饒舌だった。あるいは、言葉を知らない宇宙人のように寡黙だった。
それから事あるごとに、お前は変わった奴だな、と私に向かって言った。その度に私が、ありがとうございます、と応えると、ベルナルドは決まってくすくすと笑った。
その笑い声を聞いている時だけ、ベルナルドがまだ十代である事を思い出した。



訓練期間終了後のベルナルドの配属が通信部であると聞いて私は心底安心した。後方支援部隊の制服は紺の詰襟であったからだ。迷彩服はベルナルドには似合わない。









二年という、長いようで短い月日が流れた。
その歳月は、軍役任期とイコールであった。生き抜く為の手段も手腕も何一つ持たずにこの自由の国アメリカへ渡ってきた者にとって軍とは金を稼ぎ、食っていく為に一番手っ取り早い方法である。もちろん私は継続する予定であったが、ベルナルドは軍を辞めると聞いた。




「わあ、ここ一人部屋なんですねえ。いいなあ」


出立前夜にベルナルドの部屋を訪ねた私は、入ってすぐそう言った。
荷造りが滞っているようなら手伝ってもいいと思っていたのだが、その必要はなかった。既に部屋は片付いていて、ベルナルドの私物らしき物はほとんど見当たらない。がらんとした部屋の隅に置かれた、くたびれた革のスーツケース。彼の二年間はその中にすべて収まってしまったようだ。

これでは別れの挨拶以外にする事がない。


「お前に譲ってやりたいところだが、そうもいかなくてね。……お別れを言いに来てくれたのか?」
「はい。明日は見送りに行けそうもありませんので」
「はは、気にしないでくれ。お前に見送られたら泣いてしまいそうだ」


ベルナルドは部屋の奥へ入るよう促したり椅子を勧めたりはしなかった。戸口付近で向かい合って立つと、ベルナルドよりも私の方が少しだけ目線が高い。
たった二年ではちっとも筋肉がつかなかったベルナルドの身体もこれで見納めかとゆっくり視線を下ろすと、骨張った手首に見慣れない腕時計が嵌っているのに気付いた。茶色い革のベルトは丈夫そうだが、ベルナルドの手首を飾るにはやや無骨すぎる。

私がそれについて何か訊ねる前に、ベルナルドは苦笑して自分の左手首から時計を外した。
その時、裏側にイニシャルが彫ってあったのがちらりと見えた。一瞬だったのではっきりとは読み取れなかったが、それがB・Oでない事だけは確かだ。
外した時計を手元でもてあそびながらベルナルドは目を逸らして呟く。


「あの人はもう、いないのにな」


今からほんの一月ほど前、例の中尉殿は戦死していた。
何の不祥事かは知らないが、その人の不自然な突然の異動、そして前線行きは決まった。それから戦死の知らせが来るまでそう時間はかからなかったそうだ。後から人に聞いた話である。死亡通知が届くまでの間、ベルナルドがどのような様子で日々を過ごしたのかは会っていないので知らない。

出征前、恋人に自分の時計を預ける男の心情はいかなるものだったのだろう。
後にはただ、時計とベルナルドだけが残された。
ベルナルドはひょっとして、あの男がいなくなったからここを出て行くのだろうか。
柄にもなく感傷的な気分になって、過去と現在の挟間がコンクリートの床に落ちているかのように俯いているベルナルドに問いかける。


「本当に、愛していたのですか」


するとベルナルドは、はっ、と吹き出して顔を上げた。
ベルナルドは目と唇を嘲笑の形に歪めて、けれども泣き出す寸前のような震えた声で言った。


「愛なんてものの存在を信じているのかい?案外ロマンチストなんだな、フェルフーフェン」


ベルナルドは手にしていた時計の文字盤に軽くキスをして、それをズボンのポケットに滑り落とした。
ベルナルドの感情は相変わらず不可解だ。だがきっとこの話はおしまいにしたいのだろうという事はわかったので、了解の意味を込めてにっこりと笑って見せた。するとベルナルドは少しほっとしたような柔らかい顔になった。


「それでは、お元気で」
「お前も、な。……幸運を」




Good luck。
それはベルナルドにこそ言いたい。いつか彼が最高の幸運を手に入れたとしたら、それがどんな姿をしているのか見てみたいと思った。


私達は握手もせずに別れた。


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