今日はこの地方にはごく珍しく雷雨であった。
すっかりここの生活に慣れ切った僕は、いつものように狭い自室から足を引きずりつつ書庫へ向かい、いつものように執務机でいつ終わるとも知れない作業に取り掛かった。
そしてしばらくすると、いつものように扉の開く音がする。
普段は間接的な日光で明るい室内も、この雨ではランプの灯を必要とする。
明かりを灯してももまだ暗い部屋を無言で横切ってソファに腰を下ろしたジョット様は、いつもと違い酷く疲れて見えた。
彼が何も言わないから、事情の一切を知る術はない。
尋ねることは元よりできないのだし。
いや、口が聞けたとしても問えなかっただろう。ただ、一瞬光る雷鳴に浮かび上がる顔は、泣いているようだった。
僕は思わず立ち上がって彼の元へと駆け寄った。
足は勿論悲鳴を上げたが構っていられない。
ソファの横に膝をついて見上げる格好で彼の頬に触れた。
彼はそれを咎めはしなかった。
頬を濡らしているのは涙ではなく雨だった。よく見ると彼は頬と言わず全身ずぶ濡れの状態だった。
「大丈夫。このくらいで風邪をひく程脆弱ではないよ」
心配そうな僕の顔を見て安心させる為にそう言ったのだろうが、彼には珍しく見当外れだ。
僕が心配なのは、雨に濡れたままでいたい程彼が沈んでいる事だった。
こんな時、彼の為に一体何ができるのだろう。
声のない僕には慰めの言葉一つ紡げない。ただ、触れる事は許されるのならば。
彼の横に座り、彼の両肩に腕を回して抱き締める。
初めて触れた肩は見た目以上に細く、頼りなかった。
彼はされるがままに僕に抱き寄せられ、僕の肩に顎を乗せてじっとしていた。
やがて吐息と紛う程の小さな声で囁いた。
「カダーヴェレ、俺を…」
抱いてくれ。
雷鳴が響。
彼の肩は僕の腕の中で僅かに震えていた。
僕は瞠目したまま動けなかった。
固まった僕を、彼はソファにゆっくりと押し倒し、僕のシャツのボタンを外しベルトに手をかける。
その顔が傷付いた表情のままだったので。
僕に否があるはずもない。
彼のシャツの胸元を掴んで引き寄せ、露出した首筋に口付けた。
狂おしい雨音が響いていた。
薄闇の中で僕はできるだけ優しく執拗にいやらしく彼を抱いた。
快楽に全てを忘れられるように。
濡れた服を脱ぎ捨てて一糸纏わぬ姿になった彼は僕に貫かれながら僕の上で激しく乱れ鳴いて、泣いた。
嬌声とも慟哭ともつかない彼の悲鳴が哀しかった。
彼は僕の腕の中でしばし微睡み、目覚めた時にはいつもの彼に戻っていた。
僕が指で彼の頬に残る涙の跡を拭うと、気恥ずかしそうに微笑んだ。
それから濡れた服を顔をしかめて身に着けると、またねと言って気丈に歩いて出ていった。
残された僕は彼の涙のついた指を舐めてみる。
それは海の底のような悲しみの味がした。
毎日は何事もなく過ぎていった。
翌日姿を見せた彼はやはりいつもの彼で。
前と変わらず自由に喋り、眠り、僕を見つめて帰る。
変わった事と言えば、彼は前より頻繁に僕に触れるようになった。
特に彼とは対照的な黒い髪がお気に入りのようで、さわさわと優しく撫でる手がくすぐったい。
勿論悪い気はしない。
また、極稀に僕の体を求める事もあった。
そんな日は決まって、雨に打たれたような顔をしてここに来る。
そして求められるままに僕は彼を抱いた。
たぶん彼は自分を貶めたいのだろう。
だが、僕がどんなに愚昧な欲望を注ぎ込んでも、彼が汚れる事はなかった。
むしろ汚れたのは僕の方だ。
こんな浅ましい劣情を秘めるようになったのだから。
しかし、それで彼を満たせるならば、本望だ。彼の空虚を埋める為の道具でいい。
彼に支配される奴隷になりたい。
彼の綺麗な白い肌を撫で回しながら、墜ちてゆく自分を感じて暗い喜びに喘いでいた。
今日はジョット様も来なかったのでつい作業に没頭してしまい、部屋に戻ったのは真夜中近くだった。
自室に入ると粗末なベッドの上に見慣れないものが置いてあった。
それは、鈍く光る銀のナイフ。古ぼけた紙に書かれた手紙が添えられてあった。
書かれていたのは、明朝までに真実の愛を得られない場合、僕は夜明けと共に泡と消えてしまうという事。
助かるためにはこのナイフでジョット様の心臓を突き刺さねばならない。
彼の血が僕の足にかかれば再び魚のひれを取り戻し、海に帰れるそうだ。
そうか。もう、一年経っていたのだ。
あまりにも幸福過ぎて忘れていた。こんな日々がいつまでも続くと錯覚していた。
でも僕は、人ではなかったのだ。
ナイフを握り締めて部屋を出る。
そして初めて、地上より遥か上階へと続く階段を登った。
幸い見咎められる事はなかった。既に皆寝静まっているのか、それともこれはあの魔女の魔力だろうか。
一段上がる毎に僕の足はかつてない程深く痛んだ。
それに耐えながら暗い階段をゆっくりと上がる。あの方が僕に語った声を思い出しながら。
「お前の髪は黒よりも、闇色と言った方が近いね。
この色を見ていると、夜に人々が安らいで眠る理由がよくわかるよ」
僕は貴方の髪の色を見ていると、太陽が何故あんなにも皆から愛される理由がわかる気がします。
「この辺りは年中暖かいから俺は雪を見た事がないんだ。
雪の降る国に行ってみたいと思わないか?」
ええ、行きたいです。貴方と一緒なら、どこへだって。
「古書が好きなんだ。と、言うより古書の匂いが、かな。
だからこの部屋は好きだよ。気に入っている」
僕は、貴方が好きです。貴方の全てが。
「ああ、それと、お前のシンメトリーの顔もいいね。俺のお気に入りだよ」
最上階に辿り着いた。
予想通り、彼の寝室の鍵もかかってはおらず、手で押すと音も立てずにあっけなく開いた。
ためらいなく足を踏み入れる。
そこには、彼が居た。
静かな夜に決して混ざる事のない美しさで、彼は眠っていた。
寝台の横には大きな窓があって、断崖に佇む城の最上階のこの部屋からは間近に海を臨むことができた。
そっと窓を開いて、握り締めていた銀のナイフを海に投げ捨てた。
ナイフは闇に飲まれて力無く海底へと沈んでいった。
僕はそれに満足してうっすらと微笑む。
どうして彼にあんな無粋なものを刺せるだろうか。
僕はベッドの傍の、彼の顔がよく見える位置の床に座り込んだ。
正直なところ、僕の足はもう体重を支える力さえ残っていなかった。
あるのはただ痛みだけ。
だが、それがどうしたと言うのだろう。
体を繋げるようになって、触れる事が許されて尚、依然として僕の声は戻らなかったし、足の痛みも和らぎはしなかった。
それは即ち、彼は僕を愛するには至らなかったという現実。
だが、そんなことはどうでもいい。
彼に愛されたいわけでも、人間になりたいわけでもない。
ただ、傍にいたかった。ずっと見つめていたかった。ずっとひっそりと愛していたかった。
だから、彼を殺してまで助かりたくなどない。
絶対に御免だ。
彼のいない世界で僕だけが生き続けるなんて。
僕はベッドの隅に頬杖をついて、彼の震える長い睫毛や僅かに開いた薔薇色の唇や真珠色の肌を見つめていた。
薄闇の中で、彼は僕の光そのものだった。
やがて、外が白み始めた。夜明けは近い。
泡となって消えるそうだから、彼の寝室を濡らしてしまう事になるのは申し訳ないと思った。
僕の死体が残らないのも残念だ。
僕がどんなに幸福そうな顔をして死んでゆくのか誰にも知られないのは少し悔しい。
そう、僕はこの上なく幸福だ。
彼のすぐ傍で、彼の寝顔を眺めながら死ねるのだから。
その瞬間は僕にとって正に永遠になる。
黎明の空の下、
目の前の安らかな寝顔と、記憶の中の彼の眩しい微笑みを重ねながら、
僕は目を閉じた。
目を開けると、見慣れた天井があった。
ああ、すべては夢だったのだ。
なんて幸福な夢だったのだろう。
だが、僕は目覚めてしまった。
ここに、彼はいない。
また逢えると信じ続けるには長過ぎるほどの時が過ぎた。
どこを探せば彼がみつかるのか、もう見当もつかない。
それでも僕は彼を失ったまま、彼のいない世界でまだ醜く生き延びている。
彼を諦めることができずに、今もなお。
僕は夢の中の、永遠を手に入れた幸せそうな僕が羨ましくて仕方がなかった。
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