アンデルセン(前)

気が付くと海の底にいた。

水の中にいるという感覚は一切ない。
しかし、漠然と僕はここが海なのだと既に知っていた。

そして目の前に座る老婆が海底に住まう魔女なのだという事も。
僕はどうしてもこの魔女からある薬を巻き上げなくてはならない。
魔女は薬についてぐだぐだと注意を述べた後、言葉を切って、後悔しないかい?と問うた。
僕は御託はいいからとっとと寄越しなさいと言い捨てた。

魔女は溜息を吐きながら小瓶を手渡す。受け取って僕はためらいなく飲み干した。
喉に焼き付くような痛みを感じた。
薄れゆく意識の中で魔女の言葉が脳裏に甦る。
この薬で人間の足を得れる代償として声を失う事。
元は尾ひれであった足は人間のそれの形を取って尚、激しく痛む事。
真に人間になるには一年以内に真実の愛を得なければならない事。
さもなくば、泡となって消えてしまう事。

そこで初めて、僕は自分が人魚であった事を思い出した。と、同時に気を失った。



優しい声に揺り起こされて瞳を開いた。
眩しい光が降り注ぐ。砂浜に倒れ伏していたようだ。
衣服が海水を吸って重く纏わりついている。

「良かった。死んでしまっているのかと思った。大丈夫かい?」

人の声がした。見上げると一人の男が倒れた僕を覗きこんでいる。
煌めく金の髪、抜けるような白い肌、光沢のある飴色の瞳には安堵と心配の表情が浮かんでいる。
とても美しい青年だった。
一瞬にして悟った。僕は彼に逢いたいが為に人になったのだと。
喜びに心を震わせながらのろのろと身体を起こした僕に彼はどこから来たのか、
どうしてこんなところに倒れているのかといった質問を次々に投げ掛けて来る。
そのどれにも僕は首を振るしかなかった。

「もしかして…記憶がないの?」

しばし逡巡したが、一つとして返せる答えがない以上記憶喪失と言ってしまって差し支えないだろう。
ゆっくりと頷いた僕に、口も聞けないの?と労るような口調で問う。
再度首肯した僕を見て、彼は少し思案した後、

「名前もわからない?」

と尋ねた。
僕は砂の上に指で『骸』と書こうとして、はたと止まった。
それは一体どんな字だったのか思い出せない。
仕方なくCadavereと書き綴った。

「カダーヴェレ(死体)ねえ…。良い趣味だ」

彼は苦笑して立ち上がった。
その姿をぼうっと見上げる僕に手を差し出す。
「俺はジョットという名だ。俺の家においで、カダーヴェレ」

その手を取って立ち上がる。
ふらふらとおぼつかない足取りで彼に手を引かれて歩きながら、
前を往く青年の自分より頭一つ分小さい彼の後ろ姿を酷く幸福な気分で見つめていた。



家、と彼は言ったが、そこは城と呼んで何ら偽りない建物であった。
豪奢な門を抜けて、室内に足を踏み入れた途端にわらわらと出迎えに来たおそらく召使いであろう者達の中から、彼は黒いスーツを身に纏った男達に僕を引き渡して、うちで雇うからと言い付けた。
彼は事情を簡単に説明した後、またね、と僕に言って立ち去る。
後に残された僕は男達に引っ立てられるように地下室へ連れて行かれた。

ジョットという青年の家らしいこの城が誰彼構わず招き入れていい場所ではないことくらい容易に察せられた。
地上より何十メートルも地階のそこは、いわゆる拷問部屋であった。

そこで僕は、古典的かつ非常に効果的な手段で肉体的苦痛を与えられた。
そしてどんなに想像を絶する責め苦に対しても、僕の喉からはひゅーひゅーと空気の漏れるような音しか発せられないのを聞いて、彼らはようやく僕は本当に口が聞けないらしいと判断した。
足についても似たような方法で確認された。

数時間に及ぶ拷問から解放され、僕の部屋としてあてがわれた同じく地下の小さな部屋に押し込められてすぐ僕は備え付けの粗末なベッドにボロ雑巾のような身体を倒れ込ませた。
傷は深く痛んだが、何程でもない。
これであの人の近くに居られるなら些細な事だ。
あの人の後ろ姿を思い浮かべながら眠りについた。

次の朝、簡単な筆談のテストらしきものをさせられ、ある地下室に案内された。
そこは、地下にあるにしてはやけに明るい部屋であった。
大きな明かり取りの窓があり、そこから採光の為に城の中心部分に造られた中庭から光が入るからだ。
中には小さな執務机と、重厚なソファが設けられていて、天井まで届く程の本棚が壁一面を覆っていた。

そこで僕に与えられた仕事は膨大な不要な書類―帳簿やら契約書やらの整理だった。
既に用済みのものだが機密事項であろうものばかりで、成程喋れもせず過去も持たず最悪始末してしまってもどこからも文句の出ない僕にはお誂え向きの仕事だ。
第一僕は若い男のくせに力仕事は一切できないのだから他に使い道もなかろう。
頭だけは良くて本当に良かった。
海水と血でゴミと化した服のかわりに与えられたスーツと靴のせいで足はズキズキと悲鳴を上げたが仕事の方は数日で要領を得た。

ある日、作業に没頭しているとふいに扉が開き、彼が現われた。

「どう?仕事にはもう慣れた?」

ジョット様、と心の中だけで呼び、慌てて頭を下げる。
彼は雇主であり、文字通り主人であるから。
彼はそんなに畏まらなくていい、と苦笑して、僕の座る執務机の前のソファに寛いだ様子で横になった。

「ここには俺もよく来るんだ。地下なのに明るいだろう?」

書庫と呼べば聞こえは良いが、要はただの本専用の物置だ。
主が頻繁に訪れる用があると思えない。
こんな所に?と疑問に思ったのが顔に出ていたのだろうか。
彼は僕の様子に失笑、といった感じで笑った。

「ここは誰も来ないからね。一人になりたい時の逃げ場所にしてる。
ああ、でも気にしなくていいよ。お前なら邪魔にもならない」

深い事情も知らず口も聞けない僕なら煩わしい事もないということか。
気にせず仕事を続けて、と彼が言うので、気にしないのは無理にしてもとりあえず作業を再開しようと書類に目を落とした。
その様子を目をすがめて眺めていた彼が、自らの両手の親指と人差し指で四角いフレームを作ってそこから僕を覗き込んで言った。

「ああ、やはり、お前はこの部屋によく似合うね」

その日、彼はそこで小一時間程眠った後出て行った。
彼はここにいる間、明らかに増えた僕の傷について一度も言及しなかった。
それは初日に僕が受けた厳しい洗礼を彼は承知していたからだろうか。
いや、もしくは、あれは彼自身が下した命令だったとしたら…?

動悸が高まる。
戦慄が背を走る。
無論、歓喜の為にだ。

他ならぬジョット様に刻み込まれたのならば、こんなに愛しいものはない。

言い様のない高揚感が胸を占める。
治りつつあるのが惜しいくらいだ。
傷の疼く自分の身体を僕はそっと抱き締めた。
なんて喜ばしい、と。

歪んだ想いも一緒に抱きながら。


それからジョット様は毎日とは言わないまでも頻繁に僕の仕事場に現われた。
昼寝をしに来る時もあるし、何も言わずにただ僕の作業を眺めている日もある。
あるいは、酷く饒舌に一方的に話しかけて来る日もあった。内容は常に他愛ないものだった。
天気の話、月や星や空や海の話、遠い異国の話、昔聴いた歌の話。僕は当然返事ができなかったが、彼は応えなどなくても実に楽しそうに喋った。
時折、僕が疑問に思い問い質したい事があると、何故だか彼にはそれがわかるらしく、声に出せなくても伝わった。

だが彼は決して自分の話をする事はなかった。

僕も取り立てて興味の無いような顔をしておいた。
先述した通り、僕は頭が良いので、彼や彼の家がどんな事を生業としているか推測できたし、知って尚それがどうしたと思った。

琴線を弾いたような柔らかい声や淡い光に溶けそうな儚い笑顔が今、ここにある。
僕にはそれ以外要らない。

震える程に幸福な毎日が過ぎていった。

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