Menuett‏

「少し、ジャンにダンスのレッスンをつけてやった方が良い」

まだ太陽が空に顔を出して間もない頃、いつもの俺の仕事部屋にやってきたルキーノはデスクの上に所狭しと並ぶ電話機を押しのけて空きスペースを作り、そこに腰掛けてそう言った。

低血圧という言葉はこの男には縁のないものなのだろうな、と思いながら目をしばたかせて朝日のように自信に満ちた口元を見遣る。この時間に俺がここにいるという事は、夜の間中もずっとここにいたという事、つまり徹夜なのだと察して欲しいところなのだが、それは叶わない願いなのだろうか。
だが温厚かつ寛大な俺はいったん手を止めて、おそらく月次報告が終了して暇ができたのであろう次席幹部の思いつきに耳を傾けてやる事にした。ここ数時間、数字ばかりを睨みつけていたせいで目を閉じてもゼロが目蓋の裏に浮かんで酔いそうになる。少し休憩も必要だ。

「それは一昨日のパーティの事を言っているのか?」
「そうだ。仮にもカポがレディにリードされっ放しじゃああまりに情けないだろう」
「耳が痛いな。俺もダンスは苦手で避けてきたクチだからね」
「ハイスクールの卒業プロムでやらなかったのか?」
「あいにく出席していない。式の直前で相手に振られたもんで」
「そりゃ気の毒にな」

ジャンはそのハイスクールすら出ていない。それでもこの前のパーティでは、ダンスなんてほとんど未経験のジャンは持ち前の器用さで何とかステップについていってはいた。が、いつ相手のヒールの靴先を踏みつけるかとひやひやして目が離せなかったのも事実だ。
情けないとまでは言わないが、夜会服に身を包んだジャンは見栄えがするだけに少し惜しい気もする。あれで華麗にワルツの一つもこなせれば、少なくともご婦人方の評価は高まるだろう。

「わかった。ジャンには近いうちに適当な教師をつけるよう手配するよ」

とはいえ、外から専門の教師を雇うのはセキュリティ上危険が伴う。それにジャンならば何度か経験を積めばすぐにダンスくらい踊れるようになるだろう。
あまり大げさな話にしなくても誰か練習相手になるレディを見つくろえばいい。既婚の直属の部下の中から、相手を頼めそうな妻を持つ人物を探す事にしようか。そうだ、先月結婚したばかりのジョルジョの細君などはどうだろう。式で見た限りでは快活でそういった華やかな事が得意そうな印象だったが。今度話してみるか。

よし、この問題はこれで解決だ。ほんの僅かだが眼球を休める事もできた。眼鏡を外してしばし目を瞑り、残りの仕事を片付ける決意をして目を開けると。
目の前に大きな手が差し出されていた。未決済の請求書が山と積まれた机越しに、だ。
眼鏡をかけ直して見たが、やはりそれはルキーノの手だった。
ルキーノは机の上から降りて真っ直ぐにこちらに向かって立ち、掌を上に向けて差し出していた。

「……決済を手伝ってくれるのか?」
「いや、ダンスの方だ」
「それはさっきわかったと言っただろう。不満か?」
「ジャンの話はそれでいい。だからお前には俺が教えてやるよ」
「は?」
「筆頭幹部がパーティで踊れない、はこの先通用しないだろ。俺が個人教授してやる。ホラ、」

手、と言ってルキーノは更にぐいと自分の掌を突き出してくる。

どういう事だ、まさかこいつにはこの書類の山が見えないのだろうか。だいたい、そっちの月次報告が終了したという事は、少し遅れて次はこっちが収支決済の締切だと知らないわけではないだろう。それとも組織の資金と俺の神経を同時に擦り減らす悪夢のような請求書などいっそ捨ててしまえと暗に唆しているのか。それならば、と手元の書類をめくってみたが非常に残念な事にルキーノのシマの請求書は金額が大きいだけに真っ先に決済してしまっていた。なんて運の良い奴だ。
ぐるぐると考えて返事をしないでいると、ああそうかと言ったルキーノは、手は引っ込めずにその派手な赤毛の頭をちょっと下げて上目遣いのくせに偉そうな目つきで笑った。

「一曲お相手願えますか?」

手にしていた書類を机に投げ出して俺は溜息を吐く。
苦手だと言っただけで、踊れないとは言っていない。だから必要ないと突っぱねるつもりだったのに、気が付いたら俺は苦笑を浮かべつつもルキーノの掌に自分の手を重ねていた。
いつもそうだ。いつもこの男の強引さを拒み切れずに流される。だがそれも仕方がない。

理由なんて考えるまでもない。
その熱い手を握っただけで自然と心拍数が上がってしまうのだから、答えは明白だ。

手を取るとすぐに机の前へと引きずり出された。ルキーノがもう一方の腕を俺の腰に回して引き寄せる。抱き合うような体勢に違うものを連想しかけたが、平静を装ってルキーノの手触りの良いスーツの背中に手を這わせて身体を固定すると、耳に近い位置で低く笑う声がした。

「やらしい手つきだな」

どっちがだ。
言い返す前にルキーノが勝手にステップを踏み始めたので俺はそれに引きずられながらも慌てて下を見て足元を確認する。ここの電話線は踏んでも大丈夫だが引っ掛けてもいいようにはできていない。緻密に計算して配線したこれらを自らの足で駄目にでもしたら、自分で自分を許せそうにない。それをやっても許せるのはジャンだけだ。
幸い引っかかりそうな電話線はない事を確認してほっとすると、ふいにルキーノが鼻歌を歌い始めた。
有名なメヌエットだ。
舞踊曲として定番の、聞き覚えのあるその曲は4小節目で音が大きく外れた。俺は思わず吹き出す。

「音痴」
「うるせえ」

すかさずそう返してきたが、またすぐにその続きを歌い出す。ステップに合わせて軽快に流れるメヌエットは(普通は曲に合わせて流れるステップなのだが、今の場合は逆で正解だ)、やっぱりところどころおかしな音程で、俺は堪え切れずにルキーノの肩口で俯いて笑い続けた。これにはさすがにルキーノも歌うのを止めた。

「おいコラ。マナー違反だろうが。ちゃんとパートナーの顔を見ろよ」
「これは失礼」

笑いを収めて頭を上げると、本当に近くにルキーノの顔があった。
女性相手と違い、あまり背の変わらないルキーノとでは身長分開くはずの距離が稼げない。

掠めるくらいの近さ、けれども触れ合わない唇に鼓動が跳ねて、思わず息を詰める。そんな俺の様子にルキーノは厚い唇をゆっくりと広げて笑った。


なんて心臓に悪い光景だ。
これと比べるなら、いっそキスをする方がずっとドキドキしない。


スライドとターンを繰り返すステップはまだ止まらない。ルキーノは歌うのを止めてしまったが、代わりに電話の騒々しい電子音がワルツをリードする。あの音はストリートの公衆からだ。続いて鐘のなるような重厚なコール、あれは役員会からか。
早く出なければ、と頭の奥で思っていたがそのためにどうすればいいのかについては思考が及ばなかった。きっと徹夜明けでぼんやりしているせいだろう。ルキーノの熱の帯びたような色の瞳から視線を外せないでいるのも、睡眠不足のせいに違いない。

先程のジャンのレッスンの件は再検討の必要があるな。新婚のジョルジョに、ダンスの練習相手に妻を貸してくれと頼むのはあまりにも申し訳ない。


ダンスは危険だ。

こんなにもたやすく、恋に落ちてしまう。







それから、いつまでも鳴り止まない電話のコール音に訝しんだ部下が、恐る恐る扉を開けるまで俺達は馬鹿みたいに見つめ合ってくるくると回っていた。
予想外の光景に絶句する部下を前にして、俺は言い訳のしようもなくルキーノの腕の中に抱かれたまま足元の高価そうな靴を思いっきり蹴りつけた。


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