ルートヴィヒ・バーデン少尉は、その執務室の扉を前にして、少なからず憂鬱だった。
そこは、つい先日イタリアの軍から派遣された少佐とその副官のために割り当てられた部屋である。
奇妙な事に、彼らは我が国の軍属として正式に従軍するべく派遣されてきた、というのだ。親善でも視察でもなく、である。いくら同盟国だからとはいえ、こんな事があるのだろうか。珍しいなどというものではない。前例がない、というレベルの事態だ。
直属の上官にそれとなく訊ねてもみたが、曖昧な返事と叱責が返ってくるばかりだった。軍の、ひいては国家の決定に疑問を抱くとは何事か、と。それは正しいが、要するに上官にも詳しい事情は知らされていないというわけだ。
重厚な扉の前で溜息を吐く。
もちろん命令に逆らう気など毛頭ないが、気が重い事に変わりはない。イタリア人が苦手なのである。奴らは一様に軽佻浮薄で女好きだ。実のところバーデン少尉にイタリア人の知り合いはおらず、それは多分に偏見と呼ばれるものであったが。
再び溜息を
吐きそうになって、寸でのところでそれを飲み込む。
栄えあるドイツ軍の少尉とあろうものが俯いて溜息を吐くなどとあってはならない姿だ。それに、いつまでもここでまごついているわけにもいくまい。
姿勢を正して扉を二度ノックすると中から、入りたまえ、と良く通る低い声がした。応えた言葉はイタリア語ではなくドイツ語であった。
軍人らしく機敏な動作で扉を開き中に入る。部屋はそう広いものではなく、ごく一般的な執務室だ。
壁沿いにある、資料などを並べるための背の高い本棚の前に、それに負けないくらいの長身の男が直立している。
明らかにイタリア系の顔をしたその男は赤毛の髪の上に嵩の高い軍帽を被っている。あまり見かけない、燃えるような朱色だ。男は無言でこちらを向き、仮面のような無表情で敬礼をした。男の顔は正面から見ると恐ろしい程に整っていた。ミケランジェロが当世まで生きていたらきっとこんな顔の彫像を作ったに違いない。
そして、窓際に置かれたマホガニーの机の奥。
こちらに背を向けて立ち、窓
の外を眺めるこの人が、件の少佐殿であろう。
少佐も、また赤毛の男も、彼らの祖国のものではなく我が軍の制服を身に纏っている。イタリア人は総じて短躯なイメージだが、二人とも見上げるほどの長身だ。
「失礼します!自分はルートヴィヒ・バーデン少尉であります。恐れながらこの度、少佐のお世話係を拝命致しました。どうぞなんなりとお申し付け下さい!」
軍靴の踵を鳴らして、そう一息で言い切ると、少佐は軍人でなくとも長すぎる髪を揺らせてゆっくりとこちらを振り向く。赤毛の副官がいかにも軍属といったようながっちりとした身体つきをしているのに比べて、彼は少々痩せ気味である。しかしそんな事はこの際問題ではない。
振り返った少佐は、想像していた以上に若かった。
自分とそういくつも変わらないように見えた。他国の軍の制度など知る由もないが、それでもその若さで少佐という事は中枢にコネを持っているか、もしくはよほど優秀な人物か。そしておそらく彼は後者だろう。
真っ直ぐに筋の通った高い鼻を中心に、左
右対称を描く輪郭。思わず息を呑むほどに美しい人だった。黒い縁取りの眼鏡をかけているが、無骨なフレームですら彼の美貌を損ねるには至らない。レンズ越しに見える涼しい双眸は知性の輝きに満ちている。
「心遣い痛み入る。ああ、そう堅苦しくならなくていい。どうも肩書だけは大層だが、私自身は大した身分でもないのでね」
冷たい美貌に反して思いのほか柔らかい口調で少佐はそう言った。それも、完璧な発音のドイツ語で。低く、けれど歌うような声でドイツ語を話す少佐には、大いに好感を覚えた。
また、イタリア語などほとんどわからない自分が世話係につけられた事も不可解な事項の一つだったのだが、それは今解決された。これならば通事は必要ない。
お言葉に甘えて、と敬礼していた手を下ろす。
「何か不自由はございませんか?」
「ないよ。ああ、でも少し寒いな。まだ夏が終わって間もないというのに」
「この国では夏が終われば、すぐに冬が参ります」
「ドイツの冬は厳しいそうだね」
ふ、と少佐は先程ま
で眺めていた窓の外に再び視線を移した。
「夏は幻想のように短く、やがて寒く冷たい冬が来る。この世の全てを包みこもうとするかのごとく雪は深く降り積もり、灰色の空が街を覆う。
凍るような長い冬の間、それでも必ず訪れる春をじっと待ち続けるのだろう。街も、国も、そして人々も。厳しい冬を耐え忍ぶ力を秘めているからこそ、この国はこんなにも強く、美しい」
「……ありがとうございます」
礼を言うべきところではないかもしれなかったが、単純に嬉しかった。他国の人間に、いや、この人に美しいと称された我が祖国が誇らしい。
そうだ、ドイツは強い。
もう二度と、負けはしない。
「ところで、」
言いながら少佐は机の前へ出てきた。目の前に並ぶとその背の高さが改めてわかる。こちらを見下ろして少佐は慎重な声で問うてきた。
「君は、国家社会主義労働者党か?」
「はい」
「そうか……。いや、こんな事を訊ねるのも恐れ多いのだが、実は今日私が出席予定の会議、それに総統が見えられ
るという話を聞いたのが、真実だろうか?」
「それは、ええ……しかしあくまで、予定ですので」
知らなかった。そんな予定は聞かされていない。
しかし否定して、この少佐を失望させてしまうのも忍びなくて、思わずそう言って誤魔化した。すると、彼のグリーンの瞳の中に、はっきりと喜色が浮かんだ。
「総統はお忙しい身だろうからね。この新参者がこうも早々に会える方だとも思ってはいないが」
「失礼ですが、少佐は総統を?」
「無論、尊敬している。国外でも名高いお方だ。あの方がいらっしゃるのだから、この国の未来は必ずこの国の人々のものとなるだろう。その気高い理想のために私も微力ながら粉骨砕身力を尽くしたいと思っている」
「それをお聞きになれば、総統閣下もさぞお喜びになるでしょう」
「光栄な事だ。では、それを今ここで誓おう。君が証人になってくれないか。神に……、いや、君達は神よりも崇高なものを持っているのだったな。それなら、あの旗に誓って」
あのハーケンクロイツに、と少佐は掲げてある
国旗を示して厳かにそう宣言した。
「確かに、承りました」
バーデン少尉は素直に感動していた。
この聡明で秀麗な少佐が、冷静な声の中に抑えきれぬ熱い想いを込めて告げた誓いを聞いて、自分の中にある種の興奮が沸き起こるのがわかる。この人はきっと信頼に足る人物に違いない。実際に彼をこの目で見るまで、どこか胡散臭い話だと疑っていた自分が今では滑稽に思える。
そして何より、この美しい男、ベルナルド・オルトラーニという名の少佐にひどく魅かれている。
「それでは2時間後、会議の前に呼びに参ります」
退出する際、入口で振り返って踵を鳴らし、少しぶしつけかとは思ったが、ドイツ軍式の敬礼ではなく、右手を斜め前の方向へと指先まで真っ直ぐに伸ばして敬礼した。
それを見て少佐もまた同じように腕を高く掲げ、力強く微笑んだ。
「Sieg Heil!」
「ベルナルド、お前、マフィアより詐欺師の方が向いてるんじゃないか?」
赤毛
の副官、ルキーノは被っていた帽子を脱いで指先でくるくると回しながら呆れた声で言った。それに対してベルナルドは、先程までの姿勢を崩して背中を丸め、机にもたれかかって苦笑を返す。
「酷い言い草だ。せめて役者向き、くらいにしておいてほしいね」
「役者だったら大根だな。演技がクサすぎる」
「そういうお前は名演技だったな。直立不動、無言無表情の副官の役」
「大変だったぜ。笑いを堪えるのに一苦労だ」
「抜かせ。でも効いただろう?あの真面目そうな金髪の坊やには」
「ああいうお坊ちゃんからしたら、お前はお堅くて信頼できる男に見える、と?しっかしあの小僧、見事な金髪だったな」
「あれがアーリア人だ。彼は、総統閣下が最も愛する純粋なドイツ人ってやつさ」
「そういやさっきの、今日の会議に総統が出席するって噂、本当ならヤバいんじゃないのか?」
「それは問題ない。確かな情報源から、会議に総統はお出でにならない、と確認済みだ。だからこそ話題に出したんだよ。本当の話だったら、さすがにちょっと危険
すぎる」
「なるほどな。やっぱり詐欺じゃねえか」
「そうだね」
と言って、ベルナルドは実に楽しそうに笑った。
今や世界でも有数の独裁軍事国家の、それも軍内部に潜入など、一体どんな手段を使ったのか実際ここにいるルキーノにすら知らされていない。ただ一言、遠方へ出かけるが付き合わないか、とベルナルドから誘われた。危険な仕事になるが、と言ったベルナルドの目は今と同じ、ひどく楽しそうな笑いを含んでいた。
その時のベルナルドは妙にいきいきしていて、つい誘いに乗ってしまったが、こんな類いの危険だとは思ってもみなかった。そしてそのためにこの男はわざわざドイツ語をマスターしていた事にも驚きを通り越して呆れた。ルキーノも一応聞いた言葉は理解できる程度には勉強してきたが、ベルナルドのはネイティブ顔負けの堪能さだ。先程の将校が感激する程度には。
「言動には注意しないと。銃殺ならまだいいが、ここの強制収容所はアルカトラズよりもハードそうだ」
連合国に属するアメリカから来たなどとバレれ
ば、たしかに命の保証はないどころの話じゃ済まなくなるだろう。
氷の上に立つよりも危うい立場に立っている少佐殿は、2時間か、と呟くと何故か執務机に乗り上げて座った。長い足を組んで背を逸らし、手をひらりと振って、
「グレゴレッティ中尉。扉の鍵をかけてくれたまえ」
と芝居がかった口調で言った。
また妙なスイッチが入ったな、と思いつつもルキーノは付き合い良く敬礼して言われた通り重い音のする錠を下ろす。
「他にご命令は?」
「ブーツを」
跪いてベルナルドの膝下までを覆っている革の軍靴をゆっくりと、片足ずつ脱がせては乱暴に放り投げる。無彩色の絨毯の上を音もなく転がる長靴を見遣って満足そうに微笑んだベルナルドは、立て、と珍しく横柄な口調で言い放つ。
それにも大人しく従うと、ベルナルドの手がルキーノの胸元に伸びて上着のボタンを手際良く外してゆく。
「良く似合っているよ、ルキーノ。これを着たお前を見た時から、早く俺の手で脱がせたくて仕方がなかった」
「2時間っ
て、こういう事かよ」
「悪くないだろ?俺のは、お前が脱がせてくれ」
「もちろん、喜んで。……ったく、これじゃ何しにここに来たのかわかりゃしねえよ」
「当然、戦争をしに来たのさ。だけど、コレにプレイ以上の価値を見出したら終わりだよ」
コレ、と言ってベルナルドはルキーノの上着の胸についた鉄十字の紋章を指で弾いた。
「プレイにしちゃ本格的すぎるぜ」
言いながらルキーノもまた可笑しくなって喉の奥でくぐもった笑い声を立てる。
禁欲的で潔癖症の上官の軍服を一枚ずつ剥いで、淫乱に調教するプレイ。それもまた悪くない。
「戦争、ね。何のための戦争だか」
「決まっている。金のためさ。俺達にとっては」
「金になるとも思えんが」
「今はね。だが、近いうち、そうだな、この数年で戦争は終わる。そうなった後に我々が利益を最大限貪るために、必要な情報を今のうちに吸収しておくべきだ」
「その布石が今の俺達か。こっちが勝つ保証はあるのか」
「むしろ問いたいね。何故負けると思う?国力
、火力、経済力、どれをとっても歴然とした差があるのに?ステイツの人間から見ればどちらが勝利するかなんて自明の理だ。気付いていないのは欧州だけだよ」
「お前の目から見ても?」
「ああ。もうまもなくだ、ドイツは負ける」
「そう確信していながらよくもまああんな芝居が打てるな。しかも金のためだと?」
「金のためだよ、ルキーノ。戦争なんてそのくらいがちょうどいいのさ」
「この悪魔め」
緑の瞳をした悪魔は妖しく微笑んだ。
「宗教や民族のために始めた戦争は悲惨だよ。引っ込みがつかなくなる」
「妥協ができないから、全てを滅ぼすまで戦うしかない、か?」
「その通り。ニュルンベルク法を見ただろう?そこから先はまさに地獄だ」
話しながらもルキーノが休みなく手を動かしていたおかげでベルナルドは身に着けているものはシャツのみという姿になっていた。最後の一枚のボタンにも手をかけながら微笑む唇に口付ける。
角度を変えて唇を重ねるたびにずり落ちそうになる邪魔な帽子を、いっそ取ってしまお
うとベルナルドは自分の被っている帽子のつばに手をかけたが、それはルキーノによって止められる。
怪訝な目をするベルナルドに、ルキーノは得意げに言った。
「これはそのままにしとけ。裸に帽子だけ、ってのがマニアックで逆に燃える」
「は……ふふ、この変態」
「今更だろ。軍服姿のお前に欲情するって時点で決定だ」
ルキーノは存外に真剣な声で囁いて、ベルナルドの肩からシャツを滑り落とさせるとその首筋あたりに噛みつくように口付ける。押し殺した熱い息を零すベルナルドの髪から、肌から、いつものベルナルドの香りがした。
ベルナルドは、死の匂いがする、と呟いた。
ルキーノは、もしこれがそうならば、死とはずいぶん甘い匂いだ、と思った。
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