前線にはありがちなプレハブ造りの基地。
小隊がいくつか駐留しているだけの小規模なこの基地の、現在の現場最高指揮官は少佐であり、弱冠31歳にして佐官を頂戴した男である。
そして、その少佐にして司令官殿の私室の扉を無遠慮に叩ける特権を自らの手で勝ち取った男とは、何を隠そう俺の事だ。
「ベルナルド!いるんだろ?開けろよ!」
ガンガン、とノックとは呼びがたい乱暴さでドアを殴る。
すると中から、開いているよ、と笑いを含んだような柔らかいバリトンで返事があった。
「やあ、ルキーノ。メリークリスマス」
ドアを開けた先は、俺の常連の部屋だ。
いつもの簡易テーブル。粗末なランプ。パイプベッド。指揮官なんて言ったって前線じゃあそう贅沢もできるはずもない、置いてある物の質は下位の兵士が使っているのとそう大差はない。
一人部屋であるという事が一番の贅沢なくらいだ。
いや、あともう一つ。
「コーヒー入れてくれよ。せっかくのクリスマスだ、オルトラーニ少佐秘蔵の美味いやつな」
ベルナルドはコーヒーにはこだわりがあるらしく、どうやって手に入れているのか配給品ではあり得ない高級なコーヒー豆を隠し持っている。固形燃料で沸かした湯で淹れるインスタントには変わりないのに味の違いは明らかだった。
パイプベッドに勢いよく腰掛けるとベッドは軋んだ悲鳴を上げたが俺は気にしない。パイプベッドというものは派手な音を立てはするが意外に過度の重量にも耐えうる代物だという事を実証済みだ。例えば大の男二人分の体重くらいならわけもない。
ベルナルドはちょっと顎を反らしてふふん、と笑った。こいつがこんな得意げな顔をするなんて珍しい。
「せっかくのクリスマスだ。もっと良い物を出してあげよう」
「お、クリスマスプレゼントか?」
「そんなものかな。ラグトリフから貰ったんだけどね」
灰色の前線によく似合いの疲れた笑みなんかよりもずっと子供っぽい笑顔が可愛かったが、出された名前に俺の機嫌はたちまち急降下する。
ラグトリフ、だって?
それは、この基地で唯一の軍医の事だ。
ラグトリフ・フェルフーフェン。もっともこの薄気味悪い医者に対する兵士達の評判は決して良くはなく、陰では藪医者だの解剖医だのと呼ばれている。嬉々として麻酔無しで患者を切り刻むのだから当然か。
しかし面と向かってでも皆、奴の事は「ドク」としか呼ばない。欧州の耳慣れない響きの名前は覚えづらく発音もしづらいし、それにここには医者と呼べる人間は一人しかいないのだから、それで事足りる。
奴の事をファーストネームで呼び捨てるのなんて、ベルナルドだけだ。
名前で呼ぶのは昔からの、軍に入る前からの知り合いだからだと本人は言うが、どうだか。
「あのドクから貰ったモンで良い物だと?消毒用アルコールでも回してもらったか?」
「はは、あれは悪酔いするから止めた方が良い。ちょっと待ってろ」
飲んだことあるのかよ。
こちらに背を向けて棚を探るベルナルドにそう突っ込んではみたが、あまり聞いている様子もない。支給された軍服の上着を脱いだだけの白いシャツ一枚の背中には、肩甲骨のラインが緩やかに浮かんでいる。
クリスマスの季節にこんなに薄着なんて、故郷では到底考えられないと思いながら俺も上着を脱いでシャツのボタンを開けた。どうにも今夜は蒸す。
ああ、あったあった、とベルナルドがテーブルの上にどんと置いた「良い物」に、俺も思わず口笛を吹く。
ベルナルドがウィンクとともに言った。
「神様の血さ」
ボトルの曲線のシルエットがセクシーな、ボルドー。何年ものかはわからないが封の切っていないワインなど、こんな所ではまさに貴重品だ。
「よくこんなもん手に入ったな、あの藪医者。それに、よく手放す気になったな」
「手に入れた経緯は知らないが、この前の戦闘で負傷者が大勢出ただろう?それで輸血用血液が足りなくなったと聞いたから、俺の血を500ccほど寄付した事があってね。
その礼だそうだ」
「へえ。お前の血は神様の血と等価ってわけか。すげえな」
「乾杯しよう」
そう言って、ベルナルドはナイフを栓抜き代わりにしてコルクを引き抜き、ボトルをそのままこちらに差し出した。たしかに備え付けのブリキのマグなんかに注いではせっかくの恵みに失礼だ。
ボトルのネックを握って少し高い位置で掲げて、乾杯、と呟く。
直接ボトルから喉へ流れ込む久々のワインの味はたとえようもなく甘美だった。
少し多めの一口を飲んで、瓶をベルナルドへ回した。ベルナルドも同じように直接口をつけてワインをあおる。唇の端から赤い雫が顎を伝う。それを手の甲で無造作に拭って、美味いな、とベルナルドは笑った。
「美味い物を口にすると生きてるって実感できるな」
そう言ったベルナルドはまさに血のように赤い液体を再度口に含む。
ワインボトルを持つベルナルドの、その手首を掴んだ。たやすく指が回る手首は決して華奢なわけではないが、指の腹に突き出た骨が刺さる。痩せているというよりも極端に肉がないのだ。
硬い骨ばかりが目立つ腕を引くと抵抗するわけでもなく、されるがままに引き寄せられて俺の隣に座った。眼鏡の奥のグリーンアイがゆっくりと細められる。
何かを期待するように。
細い顎を抓んで、薄く開かれた唇を親指でなぞる。柔らかい指触りとわずかに湿った感触。
どうせなら、ワインの赤に染まったこの唇を味わいたい。
ベルナルドは小さく口角を上げて、それから目を閉じた。
それはキスを待つ合図。おそらく全世界共通の。
唇が触れ合う寸前。
どおん、と外から轟音が響いた。
閉じられていた瞳がぱっと開く。至近距離で見つめた虹彩は闇を孕んで揺らめいていてとても奇麗だったが、もう先程の恍惚とした雰囲気は微塵もない。
それから数秒も経たないうちに、部屋の電話が鳴り響いた。
「私だ」
Helloの一言もなく受話器に向かってそう返事したベルナルドを横目に、俺はシーツの上に投げ捨てていた上着を羽織った。
ベルナルドは低い声で何度か頷き、また短い指示をいくつか伝えて受話器を戻した。振り返ったベルナルドは肩をすくめた。その瞳はさっきまでの甘い微笑みではなく、どこか冷徹な鋭い上官の目だ。
「東の方角から。奇襲だそうだ。規模はおよそ100、かな」
「奇襲だと?この前の片付けた奴らの残党か?」
「おそらくそうだろうね。攻撃もそう大規模なものではないようだ」
「まったく、よりによってこんな日にか。今日はオフにするのが暗黙のルールだろうが」
「それは仕方ないさ。彼らが信じるのはジーザスではなさそうだからね」
「異教徒め。改宗しろ」
「問題発言だな、ルキーノ。これは宗教戦争じゃない」
話しながらベルナルドも軍服の上着に袖を通した。俺とは違って一番上のボタンまできっちり留めた姿は基地内でよく知られるストイックな少佐殿だ。もちろんその見た目の印象を裏切る一面を見るのは俺だけでいい。
改めて受話器を取り上げるベルナルドへ片手を上げてそれを制止する。
「俺が出る。今夜の歩哨はジュリオんとこの隊だろ。夜明けまでには終わらせてくる」
一瞬だけ迷うように口を開閉したベルナルドだったが、次の瞬間には無機質で命令する事に慣れた声で言った。
「頼む。俺は司令室へ向かう」
「Yes,sir」
そう応えて、けれども敬礼はあえてせずに俺は戸口へと足を向けた。
うん、甘い笑顔もいいけど、俺はそっちの尖ったナイフの切っ先みたいな顔も好きだぜ?
「ああ、そうだ。俺からのクリスマスプレゼントがまだだったな。何か欲しい物はあるか?」
入口で振り返ると、ベルナルドは自らの唇を人差し指で押さえて笑った。
「さっきの続きを。朝には必ず、だ」
夜が明ける頃に、キスを。
何の冗談かと思うくらいにささやかで可愛らしいものを強請るこの年上の恋人を抱きしめてやりたくなったが、今は時間がない。
「OK。待ってろ。熱いヤツをプレゼントしてやる!」
わざと軽いウィンクと投げキッスを飛ばして、ほとんど駆けるようにして部屋を後にした。
グレゴレッティ中尉!探しました!と堰を切るような声で呼び止められたのは、ベルナルドの部屋を出て、武器庫に向かう途中の事だ。この隊に配置換えになってまだ日の浅い軍曹は訓練で習ったそのままのお堅い敬礼をまず寄越してきた。
縦社会の軍隊においてそれを重んじる輩も多いのは確かだが、この非常事態ではうざったい。
「敬礼はいい。
今応戦しているのはジュリ……、あー、第26小隊のみだろう。すぐに全隊集めて加勢に回れ。報告によれば小規模だ。陽が昇るまでに終わらせる。
クリスマスに野暮な真似する連中にはそれ相応の報いをくれてやれ。以上!……と第19と第38の小隊長に伝えろ。
てなわけで、リミットは夜明けだ。急げ!走れ!」
Yes,sir!と条件反射のように敬礼し、慌てて伝令に走る軍曹につられるように俺も逆方向へと走り出した。
肩から下げた小機関銃のベルトに手を掛ける。
外へ出ると当たり前だが戦闘は既に始まっていた。
藍色の空。夜明けはまだ遠い。
硝煙と血の臭いが充満する中、俺はトリガーを握りしめて地面を蹴る。
そして叫んだ。
オートマティックに発射されるマシンガンの騒音に負けないような大声で。
「メリークリスマス!!」
ああ、平和を願う言葉を、戦場で叫ぶこの皮肉さ。
しかし、クリスマスだからと誤魔化してキスを欲しがったベルナルド。
アイツのために、俺は何と罵られようともこの聖なる夜を祝おう。
朝にはキスを。
それは、生きて戻れ、と。
そういう意味の、ほんの少しのわがまま。
だから俺は叫ぶ。
メリークリスマス!
力一杯放り投げた手榴弾のオレンジ色が花火のように夜空を照らした。
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