In the Big Apple‏


「ベルナルド?」


日没後、オレンジ色の残照すら跡形もなく消えうせ、代わりに騒々しいネオンライトが支配する街、その人混みの中でよく知った痩せた後ろ姿を見つけた。
その姿が視界に入ったと同時に、私の手は私が次の行動を吟味するよりも前に彼の肩に手を置いていた。そして私が脳からその人物の記憶を引きずり出すより先に、私の口はその名前を呼んでいた。
その自分の声を聞いてようやく、そうだ、彼の名はベルナルドだった、と思い出した。

ベルナルドが振り返る。最後に見た時よりも幾分伸びたくせ毛の髪が揺れる。黒縁の眼鏡は記憶のままだったが、厚いレンズの奥で驚きに見開かれた瞳はあまり目にした事のない表情であった。それから、それがゆっくりと柔らかい微笑みに変わる時の顔も。


「フェルフーフェン!久しぶりだね」


また会えて嬉しいよ、と言いながらベルナルドの身体はごく自然に私の腕の中へ飛び込んできた。しなやかな腕が背中に回されて軽く抱きしめられる。ベルナルドの首筋からはムスクの香りが、髪からは煙草の香りがした。どちらも甘い匂いだ。
抱き返して、ベルナルドの着ている上品な光沢のある黒のコートの背を撫でる。薄手のコートはあまり暖かそうには見えなかったが手触りは極上だ。きっと高価なのだろう。

再会の抱擁。それは世界の各地にありふれた光景だ。しかし私達の間で、それは交わされるにふさわしいものなのだろうか。
腕を解くタイミングが分からず、自由の女神の足元で人の波に押されながら、私達はしばらくそうして抱き合っていた。









カランコロン、と錆びついた重い扉につけられた鐘がカウベルのような軽い音を立てる。
寂れた暗い照明のカフェには客は一人もいなかった。カウンターの中では濃い陰影を顔に刻んでいる初老の男が規則的に気泡を立て続けるサイフォンをじっと見つめている。まるで19世紀の頃からそこに座っているような姿だ。そしてこの分だとあと半世紀はそのままでいられそうだ。
ベルナルドはこちらをまったく見ようともしないその男に一方的に微笑みかけ、ためらいなく店の奥へと進み、壁と一体化した木製の扉を開けた。その先には薄暗い下り階段が続いている。迷いなく降りてゆくベルナルドの後をただついていくしかない。
階段を降り切ってすぐもう一つあった扉を抜けると、そこは芳しいアルコールの匂いが充満していた。バーのようである。なるほど、宗教の自由と民主主義の化学反応によって議会が決した狂気の産物、禁酒法。上のカフェはそれに対するカムフラージュというわけか。実際酒を取り扱う店はどこも地下に潜って営業している。もちろん違法だ。
狭いフロアーにはテーブルが3台ほどと、あとはカウンター席しかない。

ベルナルドはカウンターの一番奥の席を選んだ。座るとすぐにベルナルドはカウンターの中の男にカルヴァトスとチェイサーを二つずつオーダーした。特に意向を尋ねられなかったが甘い飲み物が好きなのでそのチョイスに不満はない。それよりも男が上のカフェの老人ととてもよく似ている事が気になった。目元の皺の寄り具合や非常に無口そうなところがそっくりだ。
まじまじと見つめてから私が、兄弟でしょうか、と呟くと隣のベルナルドは軽く吹き出して、変わってないな、と言った。


「再会に、」


ブランデーグラスの縁をぶつけ合う。
店内の照明は電気ではなく、古めかしいガスランプがまばらに置かれている。私達の他にも客はそこそこにいたが、闇を溶かすばかりで払いのけはしない穏やかな灯りの下ではぼんやりとした輪郭は捉えられるものの顔までは判別できない。しかし薄暗い割には猥雑な雰囲気はない。音の割れた蓄音器が歌うブルースを伴奏に、小さな話し声が主旋律となって店内に満ちている。

ここは訪れる全ての人に懐かしいと思わせる場所だ。故郷を持たない者にさえも。


「ニューヨークは長いのですか?」


私はこの都市に移り住んでまだ半年だ。モグリの酒場を知っている程度にはベルナルドは私よりもここに慣れているのだと思ったのだが。しかしベルナルドはその問いを笑って否定した。


「一週間前に来たばかりの旅行者だよ。ニューヨークの証券取引所を一度この目で見たいと言ったらボスが休暇をくれたんでね」
「すると、今は証券会社にお勤めで?」
「はは、俺がホワイトカラーに見えるかい?……これ、さ」


袖を捲り上げてベルナルドは自分の左腕を示して見せる。間接の骨が浮き出た手首を拘束する革ベルトの腕時計が目に入ったが、すぐにその上に刻まれたCR-5に気が付いた。細い文字で綴られたアルファベットの意味はわからなくとも黒い墨を流し込んだ消せないタトゥーの意義は知っている。


「ギャングスタですか」
「酷いな。せめてマフィアと言ってくれよ。正確にはコーサ・ノストラと呼ぶんだが」
「すみません。違いがよくわからないのですが」
「まあ、ヤクザ者には違いない」


めくった袖を元に戻してから、ベルナルドはそのコーサ・ノストラとやらの仕組みと、近況と称してそこで彼が何をやっているかを簡単に説明してくれる。それを聞きながら私は先程見たベルナルドの左腕を脳内で反芻していた。

簡素な細工の時計は昔も今もベルナルドの腕にやや馴染み切れていない。いや、おそらくあの時計が彼にぴったりになる日は永遠に来ないだろう。ベルナルドだってきっとそれはわかっている。だからベルナルドが未だにあの時計を身に着けている事よりも、それを何の躊躇もなく私に見せた事に驚いた。どういう経緯でそれがベルナルドの手に渡ったかを私は知っている。私が知っている事をベルナルドは忘れているのか。それとも私の方こそそんな事は忘れてしまっているだろうと思っているのか。

もしくはベルナルドの中では時計の由来などもうどうでもいい事として処理されているのかもしれない。
もっとも、私にとっても既にどうでもいいものになっているようだ。それよりもタトゥーの下、皮膚を持ち上げて通ったくっきりと青白い血管の跡ばかりが網膜に焼き付いて離れないのだから。

一呼吸置いてグラスを傾けたベルナルドが、それで、と改めて言った。


「お前の方はどうしていたんだい?その妙な黒眼鏡は何なんだ?」
「ああ、これですか?」


サングラスを少しずり下げて答える。


「実は間近で照明弾を喰らいまして。視力自体は失わなかったのですが、明るいと眩しくてよく見えないのですよ」


退役もその所為でして、と私が言うと、霞みがかった視界の中でベルナルドがバツの悪い顔をした。もちろんはっきりは見えなかったので予測ではあるが、一瞬言葉につまったので多分間違ってはいないだろう。


「そうだったのか……。いや、良く似合っているよ」


さっきは妙だと言った気がしたが。


「ありがとうございます」


にっこりと笑って丸いサングラスを定位置に戻す。一度光に晒されると再び闇に戻ってもしばらくはぼんやりとしか見えなくなってしまう。とは言え、この店内の照明程度ならばすぐに回復するだろう。
それで?とベルナルドが繰り返す。


「傷痍手当が出ましたので、退役後はそれを資金に『掃除屋』を始めてみました」
「それは……なかなかヘヴィな職業選択だね」
「貴方ほどではありませんよ。支払い次第では最初の工程からやりますけど、基本は後片付けだけですから」
「片付けるだけでも、マンハッタンなら仕事にあぶれる事はないだろうね」
「ええ、おかげさまで。それに割と向いているようです」
「死体処理に?それはどの辺りで判断するんだい?」
「僕は人を殺しても何とも思いませんので」


明解だな、とベルナルドは苦笑した。
少しの間沈黙が落ちる。その隙にベルナルドはポケットからシガレットケースを取り出した。摂氏60度で燃え上がる燐から巻煙草へと火が移ると、細く頼りない白煙とともにあまり嗅いだ事のない独特の香りが広がる。それはベルナルドの髪から漂う匂いと同じもののはずだが、ゆるやかなウェーブを描く毛先の少し傷んだ髪についた香りの方がずっと甘く感じられた。
煙草の先の炎の色がベルナルドの眼鏡に映り、レンズに紅い点を落としている。その奥でベルナルドの瞳が微笑の形に細められ、まっすぐにこちらを見つめてくる。口元も笑っているがこれは故意に作られた笑顔だ。


「今はフリーなんだね?もしニューヨークに特別な思い入れがあるわけではないなら、俺の町に来ないか?」
「貴方の町。良い響きですねえ」
「そう、俺達のファミーリアの町さ。そこで俺のちょっとした野望に付き合ってみるっていうのはどうだい?掃除以外の仕事もお願いするかもしれんが、それ相応の支払いを期待してくれていいし、今以上の収入も保障するよ?」
「心揺さぶられる口説き文句ですが、そうしますと僕もそのコーサ・ノストラとやらに入る必要があるのですかね?」
「いいや、その場合お前はあくまでフリーのまま俺個人の依頼を受ける形にしてくれ。正式な構成員として俺の部下になってもらってもいいが、そうするとお互い動きにくくなってしまう。
……お前はイタリア系ではないからね」


最後に付け足した言葉の音には、僅かに侮蔑の色合いが滲んでいた。
イタリア系以外は出世を望めないコーサ・ノストラの世界。最初に説明してくれた時ベルナルドは、他の奴等には理解しがたい意識かもしれないが、と前置きをした上で組織内に血統による明確な優遇が存在する事を語った。
確かに今ベルナルドが発した嘲りは、古臭い伝統に対する軽蔑ではなく、明らかに選民思想による優越感の表れだった。それを愚かだとは思わないが、不思議ではある。人種の肯定はかくもベルナルドの自我を根本から支えるものになりえるのか。それは彼自身の人格や能力への称賛よりもずっと強く彼を安定させている。遠い昔の祖国を同じくする血の結束がベルナルドにとってどれほど手離しがたい聖櫃であるか、私には到底理解できない。
一方、選民思想は所詮マイノリティーが抱く醜悪な人種差別の一つにすぎないとする者もいるだろう。
しかし、もう一度言うが私はそれを愚かだとは思わない。
何故なら、醜い差別意識を浮かべて笑うベルナルドは、この上なく美しいからである。


「僕はどっちでもいいですけど。でも組織に忠誠を誓っていない分、裏切る可能性があるとは考えないのですか?」
「もともと忠誠心なんてものは、裏切りに対して何の歯止めにもならないさ」
「では、どうやって阻止するのです?まさか黙って見逃す?それは貴方らしくないですねえ」
「そうだね。もし、相手がお前だったら……」


言葉を切って、ベルナルドは身体を捻ってややこちらに身を乗り出す。さりげなくベルナルドの手がカウンターに置いていた私の手に触れた。


「身体で繋ぎ止めようかな」


蒸留酒で濡れた唇が掠れたバリトンで囁く。
ベルナルドの手は冷たくて気持ちが良い。上から緩く包むようにして重ねられた手に込められたわかりやすい打算が心地良い。
しばらく無言で見つめ合っていたが、私の方が先に耐えられなくなって小さく声を上げて笑った。するとベルナルドも釣られてふふふ、と笑った。震動が手を伝って響き合うから、私はまたおかしくなって、笑いながら言った。


「セックスで人を縛れると思っているのですか?意外にロマンチストなんですね」
「そう、可愛いトコあるだろ?惚れてくれるかい?」
「もうとっくに惚れていますよ」


さらりとそう返すとベルナルドは、え?と呟いて硬直した。唇はわずかに笑みの形を残して横に引き伸ばされたままだ。ベルナルドは私がすぐに冗談です、と言うのを待っているのかもしれないが、私は黙って笑顔で一度深く頷いて見せた。ベルナルドは固まって動かない。驚きのあまりまばたきすらも忘れている。あまりこの状態が長く続くとドライアイになりそうだ。
私は自分の手の上に置かれたままのベルナルドの手にもう片方の手をさらに上から重ねて握る。
ぴくり、とベルナルドの指先が跳ねた。
頭が良くすぐに物事を深く穿って考えたがるくせに、節々でものすごく計算の甘いところがこの人の可愛い所だと思いながら、私はぐっと顔を近づけて笑う。


「わかりました。そのお話、乗りましょう。その代わり一つ、相談があるのですが」
「あ、ああ。俺にできる事なら何でも」
「実は社名がまだ決まっていないのですよ。折角ですからここで貴方が決めてくれませんか」
「そんな事か。もちろん構わないよ。候補はあるのかい?」
「はい、ラブ&ピースかタートル&ビートルかで迷っているのですが、どちらが良いと思いますか?」
「それはまた、随分、その、個性的な名前だね。何か由来が?」
「僕の好きなものを組み合わせて並べてみました」
「……ラブ&ピース、かな。それなら俺も好きだよ」
「では、そちらにします。いやあ、良かったです。悩みが一つ解消されました」
「それは何よりだ」


私がぱっと手を離すと、ベルナルドは軽く肩の力を抜いた。そして動揺をごまかすかのように煙草を取り出して火をつける。肩が触れ合う程の近さで座っているのに、視線を外しただけで少し遠く感じるベルナルドの横顔を眺めた。カウンターの方を向いて薄く開かれた唇の隙間から煙が吐き出されてゆく。サイレント映画のようなベルナルドの隣にいる私もきっと、余所から見ればモノクロームなのだろう。


「そういえば昔、豚が好きだと言っていなかったか?」
「動物が好きなんです」
「嫌いなのは人間だけ、か」
「いいえ?僕は人間だって大好きですよ?」
「……やっぱりお前は変わった男だよ」


溜息とともにベルナルドが呟いた。
彼がそこで苦笑する意味はわからなかったが、ありがとうございます、と慣習のように返答して、半分くらい中身の減ったグラスを持ち上げる。ベルナルドも同じようにして再び、今度は無言でグラスをぶつけた。

契約成立。









薄暗い階段を上った時には、12時をとっくに回っていた。
ブランデーとワインの白とロゼ、それぞれ1本ずつボトルを空にしたところで再会の祝杯はお開きとなった。
ベルナルドは見るからに相当酔っている。受け答えはしっかりしているから泥酔まではいっていないのだろうが足元がおぼつかないらしく店の外への扉をくぐる時もふらふらしていた。来た時とは大違いの足取りである。
外の空気を吸い込んだベルナルドは、後からひょこひょことついてくる私を振り返って、欧州の人間は酒に強いなと言った。ラテン人が酒好きな割に弱すぎるだけじゃないのかと思ったが、潤んだ瞳を片目だけ細めて笑うベルナルドがやけにきらきらとして奇麗に見えた時点で私も大概酔っていると気付いた。

真夜中を過ぎても眠らない街はヘッドライトで溢れ返っている。帰る足に困らないのは有り難いが、ふらつくベルナルドを一人でイエローキャブに押し込むのは少々不安だ。


「お泊まりのホテルはどちらですか?お送りしますよ」


私の言葉にベルナルドははた、と立ち止まって真剣な顔で考え込み、生真面目な声で言った。


「実は、ホテルの場所を忘れてしまったんだ」
「おや、それは困りましたね。ホテルの名前も忘れてしまったので?」
「ああ、すっかり記憶から抜け落ちていてカケラも思い出せない。帰り道がわかるよう目印にパン屑を落としながら歩いていたんだが、あいにくどこにも見当たらないしね」
「残念ながら小鳥にでも食べられてしまったようですね」
「行儀の悪い小鳥もいたものだ」
「次からパンに毒を仕込んでおく事をお勧めしますよ」
「良いアイディアだね。……お前の家はここからどのくらいだい?」


タクシーなら15分ですね、と答えた。

そこからベルナルドは次の言葉を言わない。ただ自分で吐いた見え透いた嘘に笑うだけだった。
ベルナルドはおそらく私がその態度を卑怯だと罵る事はないと確信している。本当は私に限らず、他ならぬ彼自身を除けばベルナルドを非難する者などどこにもいないと私は知っていたが、自作自演のマゾヒストに合わせて彼の細い腰を支えるべく腕を回した。


「ご案内しましょう、我がヘキセンハウスへ」




ベルナルドに歩くよう促しながら、引っ越しの準備をしなくては、と考えていた。

デイバンはニューヨークよりも暖かいといいのだけれど。


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