トーストの焼ける香ばしい香りで目が覚めた。
昨日の雨とは打って変わって晴れ渡った青空は、梅雨の中休みだろうか。暗い空に慣れた目に光が染みる。
キッチンに行くとフライパンを握る黒髪の男が振り返ってにこやかに笑う。
「おはようございます」
昨晩、成り行きで拾った男―文字通り、落ちていたのを拾ったのだ―骸と名乗るアンドロイドは驚く程うちのキッチンに馴染んで見えた。
モデルルームに備え付けの家具みたいだ。
「おはよ。…何これ?」
骸の手元をのぞき込みながら聞いた。
「フレンチトーストです。あ、すみません、勝手に食材を使ってしまって」
「それはいいけど…」
そもそも食材と呼べる程のものがうちの冷蔵庫には入っていない。
せいぜいが卵と牛乳くらいで…そうか、だからフレンチトーストか。
油を弾いてじゅうじゅうと美味しそうな音を立てるトーストをなんとなしに見つめていると、骸が伺うように首を傾げる。
「お嫌いじゃないといいんですが…」
「…好きだよ」
「良かった。すぐできますから、顔を洗ってきて下さい」
ふわんと寝癖のついた髪を優しく撫でられて、面映ゆくなり頷いて洗面所に向かった。
顔を洗い、ついでにあちこちに跳ねた毛先を整える。
鏡の中から金の髪の青年が見つめ返してくる。彼はさも幸福だと言わんばかりに薄く微笑んでいた。
目覚めた時、誰かがいてくれる。たかがそれだけの事でこんなに簡単に幸せになれるなんて、俺も安いな、と思いながらも悪い気はしなかった。
キッチンに戻ってダイニングテーブルにつく。
目の前に置かれた黄金色に輝くトースト。
かじると甘い味が口の中に広がる。美味しい、と呟いた俺に骸は笑って紅茶を差し出す。
愛飲しているダージリンは新鮮な朝の香りを漂わせている。
向かいに座った骸はトーストを咀嚼する俺をにこにこと笑いながら眺めている。
それは先程鏡の中にいた自分と同じ笑顔だった。
トーストは完食し、少し冷めたお茶をすすっている時、頬杖をつく骸の左手首に傷があるのを発見した。
2センチ程の小さな傷だ。裂けた皮膚の下からは肉の繊維のようなものが垣間見える。機械らしき素材は見えない。
ただ血が流れていないだけで、人とほぼ変わらない傷跡が痛々しい。
「それ、治らないの?」
傷を指差して聞いてみる。
生き物じゃないから無理だろうとはわかっていたが、ここまで人に似ているのだからもしかしたら、と思う。
「自分では直せません。応急措置はできますが」
「どうやって?」
「針と糸をお借りできますか?」
…縫うんだ…。
ちょっと呆れながら棚の一番上を指差す。
ありがとうございます、と言いながら骸は小さなソーイングセットを棚から取り出し、座り直して目の前で縫い始める。
器用な指先がぱっくり開いた傷をみるみるうちに縫い合わせてゆく。
アンドロイドだとわかっていても、皮膚にためらいもなく針を突き刺す様子はちょっと恐怖だ。
ぷつん、と糸の端を切って針を置く。
治療完了のようだ。
「…縫うしかないの?」
「製造元に戻れば修理してもらえるとは思いますが、遠いですし」
「切り傷を全部縫うんじゃ、あっと言う間に継ぎはぎだらけにならない?」
「僕の皮膚は人間よりもずっと頑丈にできてます。だから普通にしていればそう傷を負う事もありませんので」
そう、と俺は彼の腕を見る。
小さな糸の縫い目は計ったように正確に同じ長さで並んでいる。
傷は塞がっても、癒える事はないのだ。
思っていた事が顔に出ていたのだろうか。
傷を認識するシグナルは電脳に伝わるがそれは痛覚ではないので痛くはないのだと骸は言い訳するように必死で訴えてくる。
痛みはないと言われても、痛々しい事に変わりはない。
それは骸の構造の問題ではなく、俺の問題だ。
せめて、と棚から救急箱を取り出して、めったに使うことのなくなった包帯を引っ張り出す。
戸惑う骸の手を取り、縫い跡を覆って包帯を巻き付けてゆく。
自他共に不器用と称される俺だが、これだけは得意なんだ。
包帯の端をきゅっとちょうちょ結びにする。
完成だ。
これで治ったわけではないけれど、ほら、切り傷なんかは絆創膏を貼っただけで痛みが和らいだ気になるじゃないか。
あれと同じ効果があればいい。
「これで良し。包帯が汚れたら言って。新しいものを巻いてあげる」
「…はい。ありがとうこざいます」
骸は物珍しそうに自分の腕を上げ下げしてきっちり巻かれた真っ白な包帯を眺めている。
その度に小さなちょうちょ結びが骸の細い腕の上でひらひら揺れる。
それが可愛らしくて、ふふ、と思わず笑うと、骸は俺の顔を見て同じようにふふ、と笑った。
「それとね、この家はもうお前の家でもあるんだから、家の中にあるものは何でも好きに使っていいんだよ」
「…はい」
頷いて、骸はそっと自らの腕を抱き締める。
それを見て俺はまた微笑む。少しずつ、本当に少しずつだけど、二人の距離が埋まっていく感触がする。
それは、ひどく柔らかくて心地良い。
「さて、お茶を淹れ直そうかな。骸も飲む?」
「いえ、僕は…」
「飲み食いはできないの?」
「液体くらいなら摂取しても支障はありませんが、エネルギーになるわけではないので勿体ないかと」
「問題ないよ。それじゃあ二人分淹れよう」
キッチンでお湯を沸かし直す。
二人分だから、茶葉はいつもより多めに温まったポットに入れる。
僕がやります、と骸が慌てて駆け寄ってくる。
「お茶はね、一人よりも二人で飲んだ方がずっと美味しいんだよ。知ってた?」
「知りませんでした…」
「すぐにわかるよ」
旧式のケトルからポットへお湯を注ぐ。茶葉がポットの中の小さな世界で楽しげにくるくる踊る。
二人でお茶を飲んだら、せっかくの休みだから外へ出かけよう。
骸の服を買って、それからスーパーへ寄って食料品をたくさん買い込もう。
最新型のアンドロイドが十二分に料理の腕を披露できるように。
そして、明日からは毎朝、食卓には二つのティーカップが並ぶ。
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