Lipstick

「唇、血が出てますよ」

言われて、綱吉は自分の唇に指で触れてみた。
ぴりりと、針で刺したような痛みが走る。
わずかに人差し指に赤い血が付着した。
あー、と他人事のようにうめいたら、
指摘した張本人の骸は隣りを歩きながら器用に少し低い位置にあるこちらの顔を覗き込んでくる。

痛くありませんか?と聞く声は平坦だが、瞳には気遣う色が浮かんでいる。

どうして彼はいつも、打算や利害に関係ないところでだけ、こんなに優しい顔をするのだろう。
骸に心配されるのは心地良い。
綱吉の事を思いやるのは、息をするのと同じくらい自然な行為なのだと示されている気がするのだ。

「平気、最近よく切れるんだよな」

「それは問題ですね」

前に向き直った骸が深刻そうな響きでそう呟く。
季節は既に衣替えも終えた頃合で、確かに寒くもないのにこんなに唇が荒れるのはおかしいのかもしれない。

「知ってますか?唇は内臓の一部なんですよ」

「何それ?」

「唇は内臓、特に胃と直結しているんです。
だからストレスなどで胃が荒れると唇も荒れるのですよ。胃の危険信号を出しているのかもしれませんね。
…ボス、何か悩み事でも?」

「…なるほど。だけどお前に言われたくない」

ストレスの原因ど真ん中の奴に。
綱吉を囲む頼もしい部下達は、反面こちらの予想の範囲を飛び越えた無茶や無謀を易々とやってくれる。
中でも骸は一番目が離せない、と言っていつも綱吉は自分の傍に置くようにしていた。

だけど。

「それは心外ですね」

そう、今みたいに言って、骸が嬉しそうに笑うから。
その言葉は二人にとって二人だけで決めた合言葉のようなものに変質していた。

「…まあ、こんなの舐めときゃ治るよ」

皮膜が浮いてかさついた唇を舐めると錆びた鉄の味がした。

不本意ながら慣れ親しんだ血の味に顔をしかめる。同じ味を数多の人にも味わわせてきたのだと思い出させる。
誰も傷つけたくなくて下を向いて生きてきた遠い過去を思う。
今、犠牲と同じ分だけ、誰かを守れているだろうか。

「ああ、いけません。舐めると余計荒れてしまいます。…ちょっと待ってて下さい」

するりと骸が離れる。
長い黒髪が後を引くように流れて目の前を通り過ぎる。
いつもその尻尾を掴みたい衝動に駆られるのは自分だけではないはずだ。

1分足らずで骸はお待たせしましたと言いながら戻ってきて、その場で今購入してきたであろうリップクリームのパッケージをびりびり破る。
そんなものをわざわざ買いに走ったのか、と呆れる綱吉に骸は上を向いて下さいと言って蓋を外し、綱吉の顔に手を添える。
親指で唇に付着した血を軽く拭ってから、骸はリップを押当ててくる。
目線を合わせる為に背を曲げて、丁寧に唇の形を辿りながらリップを塗る真剣な表情を間近で見てしまい、綱吉は今更自分でできるからとも言い出せなくなってしまった。

しかし、どこを見ていれば良いのかすらわからない。
つい骸の唇を見つめてしまい、だがすぐに恥ずかしくなってとりあえず目を閉じた。

唇は内臓の一部だと言っていたな、と思い出す。

つまり、今骸に内臓触られてるって事?それって何だか…。

ようやく塗り終わったのか、唇が解放される。
無意識に息を止めていた綱吉はほっと溜め息を吐いた。
そして目を開ける直前。

うにっと柔らかい感触が一瞬綱吉の唇に触れ、すぐ離れた。

驚いて目を開くと眼前には、瞳の色を除いてシンメトリーに造られた顔を、片目を細め左右非対照に変えた悪戯な笑顔の骸がいた。

今のは………今のは!? 頬を紅潮させて口をパクパクさせる綱吉に、骸は例の気味の悪い笑い方で高らかに笑った。
罵ろうにも何て言っていいか言葉にならない。

「…信じらんねー…」

「可愛い顔で目を閉じているから、期待しているのかと思いまして」

「んなわけあるか!あああ…」

「もしかして、初めてでした?」

「…馬鹿にしてる?そのくらい経験あるよ」

「それは残念」

初めてだったら嬉しかったのかコイツ…と横目で骸を睨み付ける。
手の甲で口を擦るとリップクリームの跡が付いたので慌てて手を離す。
せっかく塗ってもらったのに取れたら意味がない。

「嫌でした?」

「…はあ?」

「僕とのキス」

はっきりキスって言うな!心の中だけで突っ込みを入れ、疲れた溜め息を零す。
別に嫌ではない。
現につい先刻、骸の唇を見つめて勝手に一人でドキドキしていたくらいだ。
しかしそれは非日常なシチュエーションに翻弄されただけで、日本生まれ日本育ちの綱吉には恋人以外とキスを交わすなど念頭にない。
ましてや男となんて理解範疇外である。

そう、嫌ではなかったのだ。

だがそれをそのまま伝えて変な意味に取られても困る。
だからと言って何故嫌でなかったかと言及されるのも自分自身に問うのも辛い。
もっと言えば、早くこの話題から離れたい。
たかがキス一つ。綱吉はそう思うことにした。

「別にもういいよ。キスくらい」

「…そうですか。では次は本当にさせて頂きますね」

意味深な言葉に骸を見上げると、骸は黙って手を上げて指の付け根の出っ張った骨の部分を綱吉の上下の唇にちょん、と当てた。
さっきと同じ感触だった。

「結構わからないでしょう?」

得意げに骸が言う。
じゃあさっきのもこれということか。それをこっちが勝手に勘違いして意識しただけで。
でも誤解するように仕向けたのも骸で。
骸は赤くなって慌てる綱吉に話を合わせ続けていたわけで。

…要するに、からかわれたわけか…?

骸とのキスについて真剣に考えてしまいそうになった自分を振り返ると怒りが込み上げてきた。

「……っ!お前のっ!冗談は!マニアックすぎて笑えないんだよっ!」

ばしばしと平手で骸の背中を叩きながら叫ぶ。
痛いと言いつつも骸は笑い続けていた。
そのうち綱吉の方も、骸と戯れあって歩くのが楽しくなってきた。
いつか正しい笑いの取り方を教えてやろうと心に決める。
どうせ、この先ずっと一緒にいるのだろうから。

別れ際に差し上げます、と骸から渡されたスティックを見つめる。
それは某人気アイドルがテレビCMをやっている商品で、綱吉も目にしたことがあった。

キャッチフレーズは、
『思わずキスしたくなる唇』

「…マジ、悪趣味…」




後日、綱吉は何故か雲雀に「変態」と罵られる骸を目撃したが、今回ばかりは庇う気になれなかった。



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