鈍色の夢


目覚めると、視界は白で覆い尽くされていた。
白い天井、白い壁、白いカーテン、白いシ−ツ…。
鼻を突く消毒薬特有の刺激のある香りで即座にここが医務室であるとわかる。
体の右側を支配する鈍い痛みと身体に巻かれた白い包帯によって、骸は今生では、また死に損なったのだと悟った。

骸にとって死は常に親しい存在である。と、同時に常に恐怖の対象でもあった。
それは、彼にとっての死が常人にとってのそれとは異なり、終わりではなく通過点の一つに過ぎないと知ったその時からそうであった。
骸の過去の死は、骸の過去の生と同時間軸に直列に並び続けている。
僅かに霞む目でぼんやりと白い天井を見つめ続ける。夢を見ていたようだ。
骸はよく過去の夢を見る。六つの世界を彷徨った過去の生と死の夢。
忘れることのできない在りし日の想いと、あの人を。

「気がついた?」
ふいに聞き覚えのある懐かしい声が聞こえた。
骸が胡乱な動作で声のした方に首を向けると、白い部屋の中でそこだけが総天然色で彩られていた。
「大丈夫?痛くない?」
「ああ、ボス…」
沢田綱吉、と名前で呼ばなくなってからどれくらい経つのだろう。
その時間は骸が彼の傍で過ごした時と等しい長さである。
チョコレートブラウンの瞳に怒りと心配を滲ませて睨む彼の姿に、もうすっかり心に馴染んだ安堵と失望の感情が沸き起こる。
これはさっき見た夢の続きであっても、夢の世界そのものではない。
同じ甘い色の瞳を持つ青年は、骸の希むあの人ではない。
「そんなに痛くないですよ。かすり傷だったようですね」
「それ、麻酔が効いてるからだよ。銃弾は貫通しないで残ったままだったし、出血は酷いし、大変だったんだぞ」
心配したんだから、と咎める口調で言った綱吉に、骸は自嘲に近い苦笑を浮かべる。
馬鹿な事をした、と自分でもわかっている。

その時、綱吉に銃口が向けられていると気付いたのは奇しくも骸一人であった。
暗黒界の頂点に君臨する組織ボンゴレ、その当主が狙われるのは必然である。
平常は最も信頼に値する幹部、いわゆる守護者達の警戒と、ボンゴレ当主その人の類い稀なる強さによって数多の敵意を回避し得てきた。
しかし、今回は彼ら自身の力が油断を招いたのか、それとも銃を握っていたのが非戦闘員、善良なる筈のシビリアンだったせいか、当の骸でさえ感づいた時には既に引き金が引かれ、銃口が火を吹いた後だった。
次の瞬間、骸は右肩と右胸に弾丸を喰い込ませていた。
まったく馬鹿な事を。
いくら咄嗟の事とはいえ、もっと上手いやり方がいくらでもあったし、骸はそれを実行できた筈である。
頭より先に身体が動く、というのを初めて体験した。

「お前が血流してる姿ってマジ怖い。心臓止まるかと思ったよ」
「それはそれは。あやうく心中になるところでしたね」
「とんだ無理心中だよ」
綱吉の冗談めいた言葉に軽く笑ってみせたが、当の綱吉は恐い顔をしたまま骸を睨みつけてきた。
彼の怒りの理由は推測できたが、あえて謝罪を口にしようとは思わない。
むしろ骸には、彼が今回の件で怒る事に理不尽さを感じる。
「言っときますけど、別に貴方の為じゃありませんから」
骸の声は無機質な部屋にその言葉の意味以上の冷たさで響いた。
骸は歪んでいる。自覚はある。

例えば、ある晴れた朝に彼の人を狙う銀の弾丸の前へ文字通り躍り出る。
そこからは知覚的にはスローモーションの如くに時が流れる。被弾した右肩から飛び散る紅の鮮血。
撃たれるのは必ず右肩でなくてはならない。倒れこむ自分を抱える手。
悲愴な声で名前を呼び続ける彼の背後には完璧なまでに晴れ渡る青空がある。
霞みゆく視界で見る情景はやがてセピアへと変わる…。
そんなナルシシズムに満ち溢れた自らの死の妄想を抱いた事がある。
実際のところ、一瞬すぎてそんな世迷言を思い出す間もなかったし、こうして生き延びてしまってはただただ間抜けにすぎないが。

だから綱吉が気に病む筋合いはない。骸の自己欺瞞に勝手な意味を乗せられても不愉快なだけである。
骸の突き放した物言いに何を読み取ったのか、綱吉は表情を少し和らげて言う。
「俺の為だよ」
こんな傲慢な言葉も、彼が紡ぎ出すとそれは不思議に優しい音になる。
「ただボスだというだけで、必死でみんな守ってくれる。せめてその命だけでも俺に背負わせて欲しい。
だから、俺にとってはそれは俺の為なんだよ」
「背負って頂かなくて結構です。僕の命にそんな重みはない」
「俺の中ではあるの!…こういう時くらい部下らしく、貴方の為に命を懸けたのですからそれ相応の褒賞を!とか言ってもいいんじゃない?」
「それなら貴方こそボスらしく、俺の為によくぞやってくれた!と感激にむせび泣いて下さいよ」
それはやだ、と一蹴された。いつも綱吉がする骸の扱いはこんなものなので特に気にもならない。
別に卑屈になっているわけではない。だが、命を背負わせるなど、骸にはそんな権利はないのだ。
「勘違いしないで下さい。本当にそんなんじゃないんです」
本当に彼の為を思ってやったわけではない。理由は、自分でも厭になるくらい利己的な衝動だ。
「じゃあどうして?」
頑固な骸にやや呆れた声音で綱吉が尋ねる。
骸が抱いている、あまりにも愚かな、と言うのにふさわしい妄想を話してやろうかとも思った。
ナルシスもかくやと言わんばかりに陶酔を込めて語れば、骸が戴いている有り難くない「変態」という評価で片づけてもらえるだろう。
だが、口に出す瞬間になって、途端に説明するのが億劫になった。
数秒の逡巡の内に、骸は心の奥底に仕舞っておいた自分でも意識していない、本音の一端を呟いていた。

「貴方がいないと生きていけない」

ああ、この台詞には覚えがある。かつて骸が泣きながら叫んだ科白だ。
あの人の心には届かなかった言葉。そして、そう叫びながらなお生き続けている滑稽な自分。
遠い昔だけれど、昨日の事のように思い出せる生々しい過去の記憶だ。
今、彼に同じ言葉をぶつけるのは八つ当たりに近い感覚である。
もしくは彼を試す為の醜い手段に過ぎない。この人は一体どんな反応を示すのだろう。
「そ、そんな事言われてもなあ…」
綱吉はちょっと照れたようにがしがしと自らの頭を掻き、ふうと大きな溜め息を吐いた。
それから改めて極めて真摯な眼差しで骸の左右色の違う双眸を覗きこんでくる。
どんなに醜悪な感情をぶつけられても逃げずに誠実に答えようとする強い瞳が骸のような人間にとっては眩しく、痛い。
「こんな職業だし、俺は自分がいつ死んでもおかしくないって覚悟してる。
もし俺が死んでも残されたみんなには生き続けてほしい。
彼らの事が好きだから、俺の事なんて忘れちゃってでも幸せになって欲しいんだ。
その大切な人達には、骸、お前も入っているんだよ?でも…」
言葉を切って、綱吉は骸のシーツから投げ出された左の手の甲を包み込むようにそっと握る。
この人の手はいつも温かい、と骸はぼんやりと思った。

「でもさ、もしどうしても耐えられないようだったら、お前だけは、俺の後を追ってもいいよ」

驚きに目を見開いて骸は彼を凝視する。
綱吉は暗黒界の住人らしからぬ、優しいいつもの微笑を湛えている。
モノトーンの部屋で、彼の笑顔だけが相も変わらずフルカラーだった。
「…嫌ですよ。貴方より後に死ぬなんて御免です」
骸がかろうじて口に出来たのはそれだけだった。
「この分だと確実にお前が先だろうな」
揶揄するような口調で言って、そろそろ戻らなきゃ、と綱吉は立ち上がる。
「また後で来るから。それまでおとなしく寝てるんだぞー」
幼児に言い聞かせるように言い置いて綱吉は出て行った。
立ち去ってくれて助かった。大きく息を吐きながら骸は眼を閉じる。
きっと今にも泣きそうな顔をしていたに違いない。

共に死んでもいい。
それは、あの時骸があの人から一番欲しかった言葉だ。
遙かな時が流れた今になって、あの人に似た彼からその言葉を聞く。
それが泣きたい程嬉しくて、同時にどんなに切なく響くか、骸以外の誰にも理解できないだろう。

綱吉とあの人とは違う。その絶望だけが今確信できる全てだ。

これは夢の続き。終わりはまだ見えない。

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