至言

赤い色が嫌いだ。
その事に気付いたのは京都に来てからだったな、と足下に転がるかつては人間だったモノを無感動に見下ろしながらぼんやりと思った。



最近、手から血の色が落ちなくなってきた。

水で洗い流しても、血の感触は簡単に消えるのに、手はいつまでも赤く染まったままなのだ。
それが酷く不快で、長い間井戸端で手を擦っていると誰かに、何をやっているのかと声をかけられた。手を水の中で擦り続けながら、血の色が染みて落ちないんですと答えたが、それに対する返答はなかった。それで判った。この色は他人には見えないのだと。

最後まで顔を上げなかったのでその時の男が誰だったかは知らない。



他人には見えなくても、たしかにこの手は真っ赤な色をしている。特にこんな月夜にはそれがよく分かった。

地面にはもはや身じろぎ一つする事もない愚鈍な物体。冴えない色彩の着物が持主の身体から溢れだした血を吸って重くなり一層暗い色がじんわりと広がってゆく。刀を引き抜く刹那飛び散った色、今は地面に浸み込んでいった血の色を思い出す。それらは全て見慣れた同じ色だ。



実を言うと人を殺す事は結構好きだ。

正確には人を斬る事が、だ。

刀で切り刻まれた死体を見ると安心した。自分で作った死体なら尚更安堵できた。
それはきっと未来の自分の姿だからだ。きっと自分も殺されて打ち捨てられて一生を終える。刀を握ったその時から常にぼんやりと頭に残っている事が明瞭な形で眼前に突き付けられる感じが好きだ。人を斬る度にああやっぱり、と思った。刀に生きた者は刀に死ぬ、それが道理。それが真理。間違いなんてない。


だから厭なのはこの赤い色だけなのだ。

気が付くと無意識に何度も手を袴に擦りつけていたが、それでも血の色は薄まる事はない。

酷く不快だった。




「総司」


名前を呼ばれて振り向くと、月明かりに、長身の男の影が浮かび上がっている。


「どうした?行くぞ」


呼びかける低く静かな声。どんな闇よりも純粋で深い黒の瞳をした彼は鮮血の滴る抜き身をぶら下さげている。

刀を握る彼の手は、血塗られたように赤く染まっていた。
寸分違わぬ、同じ赤だった。


「はい。土方さん」


返事をして、その美しい鬼の後に従う。
踏み出した草鞋の下で血溜まりがぴちゃりとねばついた音を立てたが、それももう気にならなくなっていた。
ついさっきまで考えていた事も、斬り捨てたモノも、全てがどうでもよくなった。




赤い色は嫌いだけど、この人と同じならなんだっていいや。


(元治二年)







まったく、気に入らねえ。
何がって、目の前を歩く男の全てが、だ。


「なぁ」


呼びかけてみるが返事はない。無視かよ、と思いつつ男の後頭部を見上げる。当たり前だが、見上げてもこの男が何を考えているかなど読み取れるわけもなく。

だいたい、見上げなきゃならないというのがまず気に食わねえ。背なら俺だって大概高い方なのに、と釈然としない気分になる。身長など今まであまり気にした事もなかったが、この男相手だと話は別だ。そんな些細な事でも負けていると何だか悔しい。

そもそも勝てる所なんてあるのか、などとつまらねえ突っ込みを入れる奴には蹴りをくれてやる。
要は意気込みの問題なんだよ。


「オイ、」


先程よりも苛立った声で再度呼びかけたが、やはり無視。まさか聞こえてないのか?と思うくらいに無反応だ。

くすんだ群青色をした制服の背中を睨みつける。官製のその制服は当然日本全国の警官が着用しているものだが、この男に合わせて作ったんじゃないかというくらい、その長身痩躯によく似合っている。

や、別に褒めてるんじゃなく、な。

そうじゃなくて、真面目でお堅そうに見えるくせに、この鬼畜な中身はいっそ詐欺だって話だ。
その上それなりに外面は良いらしく、必要な時にはにこにこと笑って見せたりもする。

そういや、最初に会った時は猫被りどころか化け猫でも背負っていたのか、やたらと愛想が良かったな。ヤベえ、思い出すと気持ち悪りぃ。


「聞こえてンだろコラ。……いい加減、手ェ離せよ」


初めは、右手を掴まれた。さして強い力でもなかったのだが右手は以前の怪我が治りきっておらず、反射的に顔をしかめて痛ェよバカ、と言った。
するとコイツは謝りもせずああ、とだけ呟いて、改めて左手を掴んできた。


で、現状に至る。

大の男二人が白昼堂々、手を繋いで歩いているって一体どういう状況だ。しかも片方は警官。
知り合いに見られたらどう言い訳すればいい?ヘマやって警察に連行される途中に見えりゃあまだマシだが。さすがにそれは望み薄だな。無理がありすぎだ。

ああ、目眩がする。健康に関しては医者の太鼓判付きの俺が、今まさに人生初の立ち眩みを経験中だ。


毅然と背筋を伸ばして前を往く不良警官はそこで初めて俺の声に反応を示した。
と言っても、振り向きもせず、鼻で軽く笑い飛ばしただけだったが。
この男の考えていることはわからないが、今のが何を言いたいのかはわかる。
嫌なら振り解けばいい、って事だろ?
わかってるよ。実際、握られた手は強い力は込められておらず、振り解くのは容易い。

しかし、それはできずにいる。

これが右手ならよかった。怪我を理由にできる。
だけど左手なら?どんな理由をつければいい?
適当な答えを見つけられずに結局繋がれたままでいる体温に、低く笑うこの男はとてつもなく嫌な奴だ。




けれど、いつか俺達は本当の意味で離別の瞬間を迎えるだろう。
その時、手を離すのはきっと俺の方なのだ。


知ってんだろ、斎藤?お前はやっぱり酷い男だよ。


(明治十一年)







「……っ!」


零れ落ちそうになった声を咄嗟に飲み込む。既に上がってしまっている呼気は隠しようがなかったから、せめてと思い声だけは抑えたのだが。

しかしその音を聞いて、薄闇の中で真向かいの大きな瞳が少しだけ笑いを含んだ眼差しでこちらを見つめてくるものだから、いたたまれなくて再度息を詰める。

可愛い、と甘く蕩けるような声でこの年下の青年が囁くのをもう何度聞いただろうか。その度に可愛いのはお前の方だと言い返してやろうかと思い、けれどそれはもしかしたら彼の矜持を傷付けてしまうかと思い直し、ついには何も言えずに声を殺す。


この青年は嬌声を喜ぶが、やはり聞かれたくないと思うのは羞恥からではなく罪悪感からである。


「もう、いいだろう……?」
「まだダメ。まだ、やめてあげません」


つうっと舌先で指の腹を辿られると、先程から間断なく襲ってくる甘い痺れがまた背筋に広がる。

この、一方的に掌や指先を舌で弄ぶ遊びは、貴方の身体は全て奇麗なパァツで出来ているんですね、という一言から始まった。
それから身体のあちこちの部位に唇を押し当てられ、最終的に、でも特にお気に入りはココです、と中指と薬指の爪に接吻された。その後指先をやや強く吸われた際に過剰に反応を示してしまったのがよくなかった。そこから右手への過剰な愛撫が続いている。

ふいに、手を舐められると予想外に感じてしまうのは単に手が性感帯なだけではなく、相手がこの青年だからなのだと気付き、また少し罪の意識に心が軋む。



自分の手は別に奇麗ではない、と思う。それは造作、姿形という意味でも内面的な意味でも、だ。手に限らず、自分の全てにおいてそう思うのだが。
しかし奇麗、と呟く時の彼の目の奥には僅かに悲哀のようなものが情欲と混じり合って浮かぶから、いつもそれを否定できずにいる。



果たしてどちらが良いのだろう。彼の言葉通り、その幻想を崩さぬよう奇麗なふりをしてみせるのと。否定して、だから汚してもいいのだと、一緒に堕ちてやると教えるのと。
真実、彼のためになるのは一体どちらなのだろう。あるいは彼を壊すのはどちらか。



わからなくて、結局また黙り込む。沈黙を守っている限り、少なくとも積極的に彼を傷つける事はない。自分の場合、寡黙は美徳ではなく臆病だ。誰もそれを指摘しないと知っているから安心して貫き通している。


我ながら卑怯だな、とひっそり自嘲気味に唇を歪めると、それを敏感に察した彼の瞳が今度は不安に揺らぐ。それを表情に出さないよう努めて微笑みを作ってみせようとする頬を、自由な方の手でそっと撫でてやる。
彼の瞳は移ろいやすく不安定だ。それがひどく愛しい。


言葉以外で想いを伝える方法はないのだろうか。




俺はどちらでも構わないから。
だから、宗次郎。お前のその手で選んでくれ。


(明治二十年)