cry for the moon
手に、温かいものが触れた。
今宵は満月。
桟橋の上にも月光が煌々と降り注ぎ、行き交う人を照らしている。
提灯も要らない程の明るさである。
驚いて手元を見ると、小さな紅葉のような手のひらがしっかりと四乃森の指を握っていた。
それは子供の手であった。
四乃森も驚いたが、その子供の方はもっと驚いたらしく、黒目の多い瞳をこれ以上ないくらい見開いて、声もなくこちらを見上げている。
臙脂色の小紋を着た、八つにも満たないような童女である。肩先で揺れる切り髪が何とも愛らしい。
「あれ?どうしたんだろう?迷子かなあ?」
隣を往く瀬田がすぐに例の人好きのする笑顔で、子供と目線を合わせるべくしゃがみこんで話しかける。お父さんかお母さんは?と優しく問う瀬田に、ようやく極度の緊張を解いた少女は一瞬泣きそうに頬を歪め、手を離して前方へ走り出した。
少女は、今度は少し先にいた男の手に縋りついた。どうやら父親であるらしく艶やかな彼女の黒髪を手櫛で梳いてやっている。
お父さんかな、と瀬田が呟く。
「なんだ。四乃森さんと幼女の取り合わせって、すごく可愛かったのに」
どういう意味だ、それは。
「何だったんだ?今のは」
「四乃森さんをお父さんと間違えちゃったんですよ」
瀬田が、太陽は東から昇るんですよ、と諭すのと同じような、さも当然といった口調で言った。
だが、その父親とは年も風格も体格も違う。間違えようがあるだろうか。
疑問に思ったのを見透かされたか、瀬田がだってほらあの人、と前方を歩く男を指差す。
「今日の四乃森さんと同じような色の着物を着ているじゃないですか。子供の目線は低いから、きっと着物の足元だけを見てお父さんだと思っちゃったんですよ」
そんなものだろうか。
少女は父親の手をしっかりと握っている。人形のようにくるりとした瞳に今は安堵の色が浮かんでいる事だろう。父親の手にぶら下がって歩く少女の下駄が一丁前にカランと小粋な音を立てるのが微笑ましい。
「あの子、いいなあ」
隣を歩く瀬田に視線を転じる。瀬田は眩しいものでも見るように目を眇めて親子の後姿を見つめている。
「子供の頃、親に手を引いてもらった記憶なんてないな、と思って。そもそも親はいませんでしたからね」
「……いない?」
「ええ、生まれた時から僕に家族はいません」
ごく幼い時は他所の家に厄介になっていたがそこの人間とは不仲だったし、そこも八歳になった時分には出奔してしまった、と瀬田は語る。
でも、あの頃は親のいる子が羨ましいとは思わなかったなあ、だってそんなもの初めから知らなかったから妬みようもなかったんですよね、と笑う瀬田の眼はこちらに向けられる事無くどこか虚空を彷徨っている。
横顔の頬に淡い象牙色の光が陰影を作り出しているのを見て、今日は満月であったと改めて思い出した。
「仕方ないですよね。その後僕を拾ってくれた養父は僕には優しかったけれど、到底手を引いてくれるような柄じゃなかったですし。はは、想像すると可笑しいですね」
養父とは十年前の京都で地獄への黄泉路に着いた、あの羅刹の如き男の事だろうか。確かにあの男が幼児の手を引いてやるとは思えない。想像すると滑稽どころか、いっそ不気味である。瀬田の話に合わせて笑うこともなく、時には返答すらしない四乃森の無口さを、いつもの事と瀬田は気にもしない。
人通りの多い桟橋の上をお互い黙ったままゆったりと歩く。
前を進むあの父親と少女と同じ速度で。
けれど、笑いながらあの男の事を優しかったと評した瀬田の履いている靴は革でできていて、あの少女の小さな下駄のように軽い音で鳴る事はない。
決して戻れない過去を嘆く事もできない瀬田の、ぺたぺたと鈍感な音しか立てない足音が寂しかった。
「宗次郎」
瀬田の目の前に掌を上に向けた手を差し出す。
その意図が掴めず、四乃森の手と顔を交互に見比べて首を傾げる瀬田に少し焦れた四乃森は淡々とした声で、手を、と言った。
「繋いでやろう」
瀬田が立ち止まる。呆けたような表情でこちらをしばらく見上げたかと思えば、今度はひどく狼狽した様子で目を逸らして落ち着かなく辺りを見回す。
「嫌だな、そんな意味で言ったんじゃありませんよ。もう子供じゃないんだから、今更そんなの嬉しくもなんとも……」
「いいから」
「でも、ですね」
「宗次郎」
再度名前を呼ぶと瀬田は俯いてしまう。
下を向かれると確かに表情は見えなくなるが、真っ赤に染まった首筋の色までは隠せない。
黙って手を差し出し続けていると、聞き取れるぎりぎりの小さな声で、ごめんなさい嘘です嬉しいです、と呟いた瀬田が、うつむいたままおずおずと掌の上に自分の手を重ねてくる。
四乃森は遠慮がちにこちらの指先だけを握ってくる瀬田の手を無理やりずらして自分の手の中にしっかりと握り込む。ぴったりと両の掌を合わせると、その手を強く引いて歩き出す。
往く先に、あの親子の姿は既に見えない。
しばらく俯いて歩いていた瀬田は、急にぎゅうと手を握り返して、ねえ四乃森さん、と呼びかけてきた。
「どうして小さな子供は親に手を繋いでもらいたがるのか分かります?」
「……安心するからか?」
「ううん、それもあるでしょうけど、」
瀬田は明るい黒の瞳で同色の空を仰ぐ。
それからいつもの笑顔よりは少し幼い照れ笑いでこちらを見上げた。
「手を繋いでもらうと、自分が大切にされてるって実感できるからですよ、きっと」
僕も今知りました、とくすぐったそうな声で言った。
そうか、と返事をしてすっかり同じ温度になった瀬田の手の感触を確かめる。
もし、時を遡れるとしたら。
寂しいという言葉すら知らない幼いこの子の手を引いてやりたい、と思った。