rain, like a refrain‏

切っ掛けは一つの守り袋だった。

紅梅色の錦の端切れを縫い合わせてできた小さな巾着は、脱ぎ捨てられた四乃森さんの着物の袂からふいに転がり落ちたものだ。
四乃森さんはひょい、と無造作に拾い上げる。その可愛らしい色合いを目にした瞬間は四乃森さんに不似合いだと思ったけれど、彼の手の中に収まっている姿を見ると、その色は彼の素肌の白さと相性が良くて、意外にぴったりだと思い直した。

家の者が作ってくれたものだと彼は話した。


「いいですね。羨ましい」「こんなものが、か?」
「お守りなんてもらったことないですから」
「……いつか、もし良い物が見つかればお前に買ってやろうか」
「ほんとですか?じゃあその時はお揃いにしましょうね!」


約束ですよ、と声を弾ませて言った僕に笑って頷いた四乃森さんはそっと手にした守り袋を袂に仕舞い直す。

ちょうど卵と同じくらいの大きさの巾着はいびつな丸い形をしていた。いかにも手作りらしい縫い方の後ろに作った人の影が見えて、僕は慌てて自分の思考回路に蓋をした。




そんな会話をした夜は、もう随分前の事。









ふと通りかかった露店に、きらきらしたものがずらりと並んでいるのを見つけた。
最初は硝子玉かと思ったが少し違う。
それは根付に細工された石だ。鉱石だろうか。ギヤマンよりも鈍い輝きで、そのくせどれもとても深い色をしている。

隣を歩いていた僕が急に足を止めたものだから、四乃森さんは進んでしまった数歩分後戻りをしてから僕の頭越しに露店を覗き込む。
石と、それを熱心に見つめる僕とをしばらく眺めた彼は、気に入ったのなら買ってやろう、と言った。
僕は嬉しくなって、迷わず一番初めに惹かれた一つを指差した。

つるりとした表面のその石は瑠璃色で、うっかり海の底に落ちてしまった流れ星の欠片みたいだ。

浮かれた僕は何も考えずに、四乃森さんはどれにしますか?と聞いた。
けれど彼は、俺はいいと言って一つ分の勘定を済ませて受け取った石を僕に握らせると、すぐにその場から歩き出してしまう。
急いでその背中を追いかける。



お揃いにしてくれるんじゃなかったんですか?


笑ってそう言えばよかったのだろう。
だけど心の底に湧いたほんの僅かなもやもやが喉の奥で邪魔をして、その一言がどうしても出てこない。
そうしているうちに僕達はどんどん露店から遠ざかって行く。完全に機会を逸した僕は、買ってもらったお礼すら言えないまま四乃森さんの少し後ろを黙って歩いていた。

握りしめた青色が、さっきよりも少し色褪せたように見えた。





宿に着いてからも僕のもやもやは取れなかった。いつまでも黙りこくっている僕に、さすがにおかしいと思ったらしい四乃森さんが、どうした?と顔を覗き込んでくる。
いきなり至近距離で眼差しを向けられて、やっぱりこの人は奇麗だと改めて思った。


「お揃いにするって約束……」


口の中に籠った声でかろうじてそれだけを言った。
自分でも今日の僕はおかしいと思う。こんなこと、こだわって引きずる程の事じゃない。ほら、四乃森さんも困っているじゃないか。


「約束?」


四乃森さんは一層困った顔をした。

この人は忘れているのだ。無理もない。ずっと前の、それも寝物語の戯言の中で交わした約束だ。覚えていなくったって当然だ。だいたい、あれはお守りの話だったし。
わかっている。だから、



酷いなあ。忘れちゃったんですか?あんなに約束したのに。



僕は冗談めかして笑ってそう言った。いや、言ったはずだった。
でも耳に届いた自分の声は全然笑っていなかった。おかしいな。いつでも明るい笑顔の宗次郎のはずなのに。笑おうと思って笑えなかったのなんて初めてだ。

四乃森さんが静かに僕の名前を呼ぶ。
いつもと変わらない冷静な彼の態度が何故か無性に腹が立った。
当たり前だけど、僕が何を考えているかなんて口に出さなきゃ伝わるはずもない。


でも、分かって欲しかった。
羨ましかった。当然のような顔をしてぬくぬくと彼の懐に収まっているあの巾着。絶対の居場所を確保している存在。

なんて理不尽な言い分だろう。
でも、せめて覚えていて欲しかった。

僕は、彼が言った事だったら全て覚えているのに。
だけど、彼にとってはそうじゃない。




孤独だと、思った。



「もう、いいです」
「宗次郎……」
「もういいんですってば!」


気が付いたら、僕は瑠璃色の石を四乃森さんに向かって投げつけていた。
石は四乃森さんの胸に当たって、音も立てずに畳の上に落ちて転がった。



それからすぐに、僕は何も言わずに部屋を飛び出した。







外は折悪しく土砂降りの雨だった。真っ暗な道を泥を跳ね上げながらひた走る。

気の済むまで走った後、立ち止まって振り向いたけれど夜の闇の中には誰の人影も見つけられなかった。

四乃森さんは追いかけてきてもくれなかった。

僕が全力で走ったらいくら四乃森さんでも追いつけやしないだろうと思ってわざと少しゆっくり走っていたのに、馬鹿みたいだ。
折角買ってくれた物を投げつけてしまったから怒っているんだろうか。
いや、そんな事で怒るような人じゃない。……だったら。


雨を吸ってかなり重くなった着物を身体にまとわりつかせて、とぼとぼと歩き出す。

最低だ。




いつのまにか神社の境内に来ていた。
東京の都会ならともかく、こんな郊外に瓦斯灯なんて洒落たものはあるはずもないから、欝蒼とした境内は雨と宵闇とで深く沈んでいた。
暗くてよく見えないけれど、おそらくこの場所を僕は知っている。昼間、四乃森さんとここの前を通り過ぎた。

いつも無口な四乃森さんが珍しく、ああ、神社があるな、と言った。だけど僕はその時へそを曲げていたから、神社なんか何の興味も持てなくて相槌すら打たなかった。その事を四乃森さんは特に気にした様子もなく次に続く言葉も言わなかった。ただの独り言だったのかもしれない。それだけの事だ。

馬鹿みたい、ともう一度心の中で呟いて、その場に後ろ向きに倒れてみた。背中に大きな水たまりがあったらしく、ばしゃんという音とともに派手な水飛沫が上がった。身体の半分くらいの位置まで水に浸かったけど、これだけ濡れていたら例え川に飛び込んだって同じだろう。


仰向けに空を見上げる。顔を、手を、足を、体中を雨が打ちつけるのに、暗いからか不思議と雨粒は見えない。黒い天が一面に広がるばかりだった。僕はそれを残念に思う。

実は、雨はそんなに嫌いじゃない。
全てを雨のせいにできるから。

言葉が届かないのも、うまく笑えないのも、僕が独りなのも、全て。



雨足が強まってきたのか、水が目に入ってとても開けていられない。
仕方なく目を閉じると四乃森さんの顔が見えた。

このまま四乃森さんを見ながら雨の中で眠ってしまいたい。そして肺炎にでもかかって死んでしまえたらいいのに。

僕が死んだら、彼は泣いてくれるだろうか。
少しでも僕の為に泣いてくれたら嬉しいな。

いや、もしここで死んだら四乃森さんは戻らない僕を探しもせずに一人で京都へ向かってしまうだろう。僕がここで冷たくなっている事にも気付かないまま。
それからいつか、あの時の青年は今どうしているだろうかと思いを馳せてくれる日も来るだろう。四乃森さんが泣くのはやっぱり可哀想だから、時々思い出してもらえるなら……うん、そっちの方がいいや。


四乃森さんが好きだ、と思った。



四乃森さんを好きな僕は、途方もなく孤独だと思った。


雨は相変わらずの勢いで降り続いている。だけど、気付いた。雨が目に入るせいじゃない。僕の目に涙が溢れているから目が開けられないんだ。

雨は嫌いじゃない。
雫が流れ出す涙を、雨音が堪え切れない嗚咽を隠してくれるから。




雨の日にしか僕は泣けない。




水たまりの中に横たわったまま、僕は声を上げて泣いた。






「僕の事なんてどうでもいいと思っているんでしょう」


結局、夜明け前に僕は宿に戻った。
あれからずっと雨の中にいたから、全身これ以上ないって程にずぶ濡れだった。板の間の廊下に僕が通った水跡が道のようにできている。
だけど、どうせやたらと丈夫な僕は肺炎どころか風邪すら引かないに違いない。


「いなくなった方が清々するでしょう。でも残念でした!離れてなんてあげませんから!」


入口の敷居の向こうで拳を握りしめて叫んだ僕に、彼は無言で立ち上がって近づく。
僕の声の残響と雨音だけが部屋の中を支配する。雨はまだ止まない。

四乃森さんはそっと僕の肩に両手を掛けて僕の身体を自分の腕の中へ抱き寄せた。
僕はされるがままに引き寄せられて部屋の中に足を踏み入れる。足元でみるみるうちに畳に浸みができた。

頭の横で四乃森さんの低い声が囁く。


「心配した」
「嘘つき」
「本当だ」


ぎゅう、と強く抱きしめられる。
全身濡れ鼠の僕を抱きしめる四乃森さんの着物は足元の畳どころじゃなくどんどん水分を吸収していっている。けれど、今の僕は意地悪だから、わざと彼の肩口に濡れた髪を押し付けた。

四乃森さんなんて、僕と一緒に濡れてしまえばいい。

目の端にきらりと光る何かが映った。
僕が投げつけた瑠璃色の石だ。拾い上げられて今は文机の上で所在無げに煌めいている。

どうしてそれを一番に気に入ったのかが分かった。




雨のように優しい紺色は、四乃森さんの色だった。