Take me in
場所は新橋駅。
岡蒸気の発着地として文明開化以降とみに栄えた町である。
東京へは人捜しの為に訪れた。
だが会えたのは捜し人ではなく、実に意外な人物であった。
「四乃森さん!」
呼ばれて振り向くと、人混みを掻き分けて一人の青年が真っ直ぐこちらへ向かって駆けてくる。
小紋の単衣に縹藍の少し草臥れた袴をつけて、首元には洋風の襟巻を巻いた洒脱な装いの青年は、見覚えのある明るい笑顔でにっこりと笑った。
顔を合わせたのは実に十年ぶりであるが、その印象的な雰囲気で、彼が誰であるかすぐに思い当たる。
「お前は、確か瀬田……」
「宗次郎です。お久しぶりですね、四乃森さん」
それが、瀬田宗次郎との再会であった。
もっとも運命の再会と呼ぶには、どちらにとっても懐かしくも思い出深くもない相手だと、その時はそう思った。
日本橋へと場所を移して、一つの小料理屋に腰を下ろしたのはまだ宵の口の時分である。
立ち話も何だから、と切り出したのは四乃森の方であった。そのくらいの愛想を持ち合わせるくらいには大人になった、と自分では思っている。
その提案に瀬田は初め、躊躇する態を見せた。金がない、というのが理由であった。
そんなものはこちらで持つ、と言うと、瀬田は恐縮する風でもなく、じゃあ遠慮なく、と屈託無く笑った。
店に入ってから、四乃森が下戸だと知ると、瀬田は品書きの酒の欄には一切手を伸ばさなかった。彼なりに気を遣っているのかと思ったが、そのくせ料理は好きな物を好きなだけ注文した。そして運ばれてくる料理を実に美味そうに次々と完食した。本当に遠慮なく食うな、と呆れたが、嬉しそうに食べている時の彼の可愛い笑顔を見ていると不思議と悪い気はしない。
一方、四乃森はあまり食の太い方ではないので、料理にも二、三品箸をつけただけで止め、後は番茶を啜りつつ目の前の青年を眺めていた。
最後に会ったのは九年前だ。あの時と比べて彼は随分と背が伸びたようだ。いや、背だけではない。その頬にあの頃の面影は残っているものの、少し痩せた所為か輪郭が鋭くなり、少年らしい幼さはすっかり抜け落ちている。当世風の散切り頭の襟足と横髪を肩先まで伸ばしている様が粋で、それが彼の顔を大きな瞳の割には大人っぽい造作に仕立てている。
まじまじと観察していると、ふと視線に気づいたのか瀬田は自分の頬を掌でおさえて、嫌だなあ何ですか、とはにかんで困ったように笑った。
年相応の青年らしく爽やかで端正な面立ちだが、笑うと途端に人懐っこい表情になるのが魅力的だ。
瀬田はよく喋った。
四乃森は自他共に認める口の重さであるし、当初の出会いは血生臭すぎて語り合いたい思い出話もない。久々に会ったからといって積る話もなければ近況を報告し合いたい程の共通の知り合いと呼べるものもない。そう気付いたが、瀬田は四乃森のそんな危惧などお構いなしに喋り続けた。
この九年、瀬田は全国を放浪して回ったらしい。流れ者だと笑って言った。
根無し草稼業はどうやら自分の性に合っていると彼は語った。
都会に辿り着けば適当な雇い口を見つけて働き、小金が貯まればまた流れる。田舎ではそう易々と余所者の彼を雇う所も少ないから、その時は人の親切に甘えて過ごした。
余所者を泊めてくれる家はあるのかという疑問には、そこはほら、僕の笑顔で、という返答をしゃあしゃあと言ってのけた。
場所が悪いとあわや乱闘という事も度々あったらしいが、瀬田曰く、僕は刀が無くても強いんですよ、まあできるだけさっさと逃げますけど、との事である。
それから瀬田は全国で見てきたものを語った。
北の地の空気すらも凍りつきそうな荘厳な海の話や、海外貿易で活気づいた港町の話。
そこで一日中飽きずに外来船を眺めていた話。
夕日の赤に感動して泣いていた聡明な少女の話。
黒船来航どころか、関ヶ原の合戦ですら見てきたように語る老人の話。
七夕の織姫さながらに機を織りながら恋人を待ち続けた美しい女性の不思議な恋の話。
瀬田の言葉から転がり落ちた町や人々はどれもがとても優しい。
四乃森の決して上手くない相槌にも拘らず瀬田の唇は間断なく動いた。それを眺めながら、比叡山で彼らの根城にしばらく逗留した時も彼はこちらが一言も返事をしなくても一切気にせず延々と話しかけてきた事を思い出して、少しだけ微笑んだ。
その瞬間、ぱたりと瀬田は黙った。さっきまでくるくると良く回っていた舌は止まり、代わりに長い睫毛を何度も瞬かせた。
如何した?と目線で伺うと、瀬田はゆっくりと眩しげに目を細めた。いえ、と言ってまた少し黙る。
先程まで喋っていた、碧い瞳の異人が見る世界は果たして海の底のように青いのか、という話の続きはどうやら語る気がなくなったようだ。
「四乃森さんはあの頃と変わらないなあ」
「そう、か?」
「そうですよ。ほら、全然老けてないじゃないですか」
あ、これ褒めてますから、と瀬田はぱたぱたと手を振った。それは各方面からよく言われる事である。
「お前は変わったな」
「だってあの頃の僕はまだ十代だったんですよ?そりゃあ顔も変わりますよ。背も随分伸びましたし……」
「いや、そうではなくて」
四乃森は卓上に肘をついた前傾の姿勢で、瀬田の瞳を正面から見つめる。
「寂しい目をするようになった」
瀬田の顔からすうっと笑みが引いた。無表情とは少し違う。が、四乃森が知る、人間の感情の中のどれにも今の彼の表情は当て嵌まらないように思えた。
急に目の前の瀬田が、全く知らない大人の男に見えた。
やがて、瀬田は目を逸らし俯いて、参ったなあ、と呟いた。口許は笑みを作っているが声は少し震えている。
それを見て四乃森は密かに焦った。もし彼が泣き出したなら一体どうすればいいのだろうと、そんな失礼な事に思考を巡らせた。
「すまない、失言だったようだ」
「いえ、いいんです。でも……」
ぱっと顔を上げた。ここ数時間で見慣れた瀬田の笑顔である。
「すみません、やっぱり一杯だけ飲んでもいいですか?」
「ああ、付き合えなくて悪いが」
瀬田の目に涙が浮かんでいない事を確認して、ほっとした。
しかし、よく考えてみたら瀬田だってこれしきの事で泣くはずがない。独りで勝手な妄想に囚われて勝手な心配をしていた事が恥ずかしくなった。
だからというわけではないが、運ばれてきた四乃森には飲めない液体を飲み干す瀬田の濡れた唇を見ないように、さりげなく目を背けた。
店を出る頃にはよく喋る明るい瀬田に戻っていた。
宿の場所を訪ねると、瀬田は決まっていないと答えた。それどころか金もないので橋の下ででも寝ようと思っていたと言うのである。真夏じゃあるまいし、そんなわけにいかないだろう。
成り行きで、四乃森が東京で起居している家へと瀬田を連れて帰る事態になった。
その平屋は御庭番衆の持物で、東京へと出てくる時は大抵この家を使った。
京都御庭番衆は京都市民の安住を守る為として、未だ組織の機能を失っていない。そういった裏の仕事を果たすは四乃森の役目である。実は今回もそれではるばる東京まで足を運ぶ事になったのだ。但し、肝心の捜し人は既に鬼籍に入っており、徒労に終わる結果となったが。
擦り切れた革靴を三和土にきちんと揃えて置き、お邪魔しますと礼儀正しく言ってから瀬田は座敷に上がった。
ここへは寝に帰るだけなので必要最低限のものしか置いておらず、生活感はまるでない。瀬田を昨日まで四乃森が使っていた一室へと案内する。そこがこの家の中でかろうじて掃除のされている部屋だからである。後はみな埃を被っている。
畳に直置きしてある四角い行燈に火を入れながら、予備の布団はどこに仕舞ってあったかと記憶を辿る。
八畳ほどの小さな部屋が橙色の灯りに照らし出される。
おとなしくついてきていた瀬田は重い影を引きずって四乃森の傍へ寄ってきて、膝をついて座り込んだ。
「すみません。すっかりお世話になってしまって」
別に構わない、と四乃森はちょっと笑って言った。何のもてなしもない粗末な家に一晩泊めてやるだけだ、お世話という程の事もない。
でも、と瀬田は上目遣いにこちらを窺う。お互い床に座っているから目線が近い。
「やっぱり悪いから、宿代だけでもお支払いさせて下さい」
「金がないと言っていなかったか?」
「ええ。だから、身体で支払います」
いつの間にか、瀬田に手を握られている事に気付いた。
彼の掌から伝わる鼓動は自分のものより僅かに速い。瀬田の言葉がどういう意味なのか、触れあう肌の温度で伝わらないわけがない。
「……冗談だろう?」
「本気ですよ。それとも、僕じゃ嫌?」
確かに瀬田の眼は真剣だった。
反射的に少し上体を後ろに退く。しかし退いた分だけ瀬田は前に乗り出してくる。頬に影を落とす程長い睫毛が、朱色に染まる柔らかそうな唇が、距離を縮めてくる度に拒めなくなってゆく気がした。
ほとんど四乃森の膝の上に乗り上げるような格好で、瀬田はそれでも手を離さないまま、お願いですから、と言った。
「お願いですから、要らないって言わないで」
頷く以外に選べる道があっただろうか。少なくとも四乃森には見えなかった。
瀬田は良かった、と呟いて一瞬だけ四乃森の肩に額を当てて顔を隠した。
が、すぐに起き上がったかと思うと、今度は耳元に唇を押し当てて囁いた。
「安心して下さい。ちゃんと気持ち良くしてあげますから」
仄暗い行燈の灯りが作り出す光と影の、その影の方に隠れるようにして交わった。
全身を余す処なく舐め尽くされ、自分でも知らなかった性感帯を全て暴かれ、そこを執拗に責め立てられた。
感じやすいんですね、と嬉しそうに言った瀬田の瞳の中に欲望の色が揺らめいているのを発見して、柄にもなく興奮を覚えた。
そして先刻の言葉通りの蕩けるような愛撫の所為で、身体を繋げる頃にはどうしてこうなったのか、自分が何をしているのか、わからなくなっていた。
ただ縋りついた瀬田の背中の、滑らかな肌に爪を立てないように注意するだけで精一杯だった。
そして、翌朝。
「おはようございます、四乃森さん」
同じ褥の中で微笑むは、昨夜ひょんな事から再会した知人の青年である。
結局昨日は疲れ切っていて、わざわざ黴臭い布団を引っ張り出すのも億劫になり、一つ布団で眠る事になったのである。
明かり障子の光を浴びながら、起き上がってううん、と伸びをする彼の裸の背にくっきりと肩甲骨が浮かび上がる。染み一つない背中を指で辿りたくなったが、手を伸ばす前に思い止まった。自分も今の彼と同じく、裸である事を思い出した。
「お前はいつもこんな事をしてきたのか?」
瀬田が振り返る。
横になったまま彼を見上げながら、普段は底抜けに明るい笑顔を振りまくくせに、ふとした拍子に半透明のギヤマンのような歪みを見せるこの情緒不安定な青年の事を、何も知らないのだと思った。
先に身体だけを知ってしまった。
「じゃあ僕も聞きますけど、四乃森さんはいつでもこんなに流されやすいんですか?」
極上の笑顔で言い返された。
別に流されたわけではない、と言いたかったが、我ながら何と説得力の無い言い訳だろうか。そう思って二の句が継げずにいると、瀬田はごめんなさい、と言って四乃森の腹の上に頭を倒してきた。
「僕が悪いんです。でも、同情でも構いませんから」
瀬田の柔らかい黒髪が腹に当たってくすぐったい。
「ずっとじゃなくていいですから。飽きるまで、傍に置いて下さい」
「……ああ」
返事をして髪を撫でてやると、小さな声を立てて笑った。
それが妙に大人びて聞こえた。
好きなだけ此処に居れば良い。
お前が俺に飽きるまで。