会者定離
昔話?
何だってそんなもん聞きたがる?
ああ、わかったわかった。要するに酔っ払いの戯言だな。
別に構わんが、大して面白い話もないぜ?
はあ……また、お前はそういう馬鹿な事を……。
最後に泣いた日、か。そうだな、あれは。
後に戊辰戦争と呼ばれる戦いの最中であった。
数においては圧倒的に勝っていたはずの幕府軍は、今や敗走の一途を辿る結果と成り果てている。
元より幕府軍は維新軍に比べて士気の低さは目立っていたが、何よりも明暗を分けたのは近代兵器の導入であろう。最新鋭の火力の前には剣術の威信など脆くも崩れ去った。
刀の時代は終わりに近づいていた。
それを肌で感じつつも斎藤はまだ、刀を握りしめている。
周囲には血の匂いが充満している。
松明を煌々と焚いた陣営内は夜の帳を拒むように明るい。だがその灯りの所為で外は一層闇が深い。
斎藤君、と背後から呼ぶ者があった。
振り向くと、土方が立っていた。
土方は長い後髪をバッサリと切り、洋装に身を包んでいる。舶来の軍服という名の黒い細身の洋服は長身痩躯の土方にはとてもよく似合っていた。
副長、と呼びかけると土方は、
「もう副長じゃないだろう」
と苦笑した。
新撰組は崩壊した。
隊の者の多くはこの戦争で戦死し、残った隊士達は皆幕府軍の一部となり、土方は副司令官という立場に収まっている。
近藤は処刑された。沖田も原田も山崎も井上も、先に逝った。
新撰組は、もうないのだ。
「斎藤君、ちょっと頼みがある」
「頼み?何ですか」
「君、君はここに残れ」
いつもの低い声で、囁くように言った。
ここ、会津での戦いは敗色がかなり濃厚になってきている。この後も幕府軍は北へと転地し、最終決戦の場を蝦夷へと定めて戦い抜く方針と聞いていた。斎藤も勿論最後まで参戦するつもりだったのだが。
「本隊は北へと移るが、この地にも一部隊を分けて本隊が離脱するまでの間時間稼ぎの為に抵抗させる事に決まった。その指揮を、君に執ってもらいたい」
君にしか任せられそうにない、と土方は目を伏せながら言う。
つまりは囮、捨て駒というわけだ。それでもその働き如何が本隊の死活を決めるのだから、非常に重要な役割でもある。
斎藤はこれみよがしに溜息を吐いてみせる。
「らしくありませんな」
「は?」
「そんなもん、いつものように命令すりゃあいいんですよ、副長」
「俺はもう副長じゃねえ」
「同じ事です。変わりはしません」
それが貴方の言葉なら。貴方の命令なら何だって聞きましょう。
しばしの沈黙があった。出会った頃から一分も色褪せぬ土方の眼光は深い闇夜に紅く煌めいていた。
やがて、彼は何かをふっきったように笑った。敵わねえな、と呟いて。
「では、任せた」
「当然です。薩長の奴等に目にもの見せてやりますよ」
斎藤は少し顎を反らせて、平常と変わらぬ不遜な口調で言った。
例え負けが見えていたとしても一度刀を抜き合ったら最後まで戦い抜く、それが隊の掟であった。
そしてそれが後に伝説の人斬りに最強の剣客集団と評された新撰組、その三番隊組長斎藤一の矜持である。
頷く土方に斎藤は、そうだ土方さん、とわざと軽く言った。
「それじゃあ、代わりに俺の頼みも聞いてくれますか?」
「……ああ」
「では、ここは一つ、無礼講でお願いします」
斎藤はそう言うと、両腕で土方の身体を抱きしめた。
驚いて身じろぐ土方の背中と腰をしっかり固定する。初めて抱きしめた身体は見た目以上に細く、斎藤の長い腕が少し余るくらいである。近日の激戦で前よりも痩せたのかもしれない。
硬く短い髪が頬に当たる。
彼の肩越しには、無限の闇が見えた。
突然、斎藤の眼から、何故か一粒だけ涙が零れ落ちた。
悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。感情とは別の何かが斎藤の意志を無視してそうさせたのだろうか。ただ、不思議と違和感はなかった。
今腕の中に在る奇跡は、涙を流すに値する存在だと思った。
「俺は貴方が好きでした」
短い告白。返事は要らない。
零れた涙は誰にも見つからないように素早く地面に浸みて消えた。
身体を離すと、土方は困ったように柳眉を寄せて何か言いたげに口を開いた。
が、斎藤は首を振ってそれを遮る。失礼、と言って斎藤は背を向けた。
「斎藤!」
背後から土方の声が呼ぶ。
「地獄で総司に会ったら伝えてくれ!土方は最後まで屈せず戦った、と!」
それが、斎藤が聞いた彼の最後の言葉である。まったく、彼らしくて嫌になる。
振り返って言い返す。
「ご自分で自慢なさって下さい。どうせ往きつく先は皆一緒だ」
沖田と同じで、斎藤にとって土方と、彼が作った新撰組はこの世のすべてだった。
だからこれからも、あの人がくれた唯一つの誇りを後生大事に生きていく。
「……それで、どうなったんでえ?」
「別にどうも。知っての通り幕軍は敗退、新撰組は壊滅、副長は函館で戦死したと聞いたな」
「へえ……」
相槌を打つと、相楽左之助はつまらなさそうに視線を逸らした。
だから面白い話ではないと言っただろうが。
うつ伏せで腕に高枕を抱え込んだ姿勢の相楽を見下ろしながら、心の内だけでそう呟く。
いつもの法被ではなく高紺の麻の浴衣を着た相楽は目に新しい。鉢巻を外した顔は安宿の行燈の灯りの薄暗さも手伝って、思っていたよりも随分大人っぽい。意外と女受けが良さそうだと思った。
「で?」
「あ?」
「お前の方はどうなんだ?」
あー、と言いながら見るからに狼狽し始める。
「真逆、人に喋らせておいて自分は言わねえ、なんてことはないよな?」
「いや、その……あれだ、忘れたよ」
「嘘つけ。たかが十九年しか生きてないくせに、忘れる程昔のはずないだろう」
話自体はどうでもいいが、嫌がられると聞きだしたくもなる。
大体、最後に泣いた日はいつだなんて、幼稚な事を言い出したのはこの男の方なのだ。
斎藤はそれ以上何も言わずに煙草に火を付ける。無言の攻防である。
相手は沈黙の重圧に長時間耐えられる程の器の広さはないだろう。
思った通り一本吸い終わらないうちに相楽は不明瞭な発音で何か言い出した。
「……あん時だよ」
「何だって?」
「だから!」
がばっと起き上がって赤い顔で怒鳴る。
「志々雄のアジトで!お前が死んだと思った時だよ!悪かったな、バァーカ!!」
言うが早いか、くるりとこちらに背を向けてしまう。
成程、そういう事か。
最後の紫煙を吐き出して、吸殻を灰皿に押し付ける。
そして少し離れた所にいる、赤いうなじを晒している男に呼びかけた。
「おい」
「…………何だよ……?」
「抱いてやるからこっちに来い」
(明治十一年某月朔日)