落花流水
梅雨の季節である。
永劫降り止む事のないかの如き雨が朝から続いている。
ふと、窓の外に四乃森蒼紫の姿を見つけた。
長身の彼は京の都をただ歩いているだけでもひどく目立つ。いつもの黒ずくめの洋装で、全身を雨に濡らしながら歩いていた。
いや、いつもとは少し違う。いつもの無彩色の中に一際濃い赤色が網膜に焼き付いた。
よく見ると、四乃森は何かを抱えている。
それは、猫だった。
黒猫だった所為で服の黒と同化してよく見えなかったのだ。
小さな猫は、血に塗れていた。
無残な姿になった猫の死骸を抱きかかえる男の表情は、水分をたっぷり含んだ長い前髪に隠されて読み取れない。
遠ざかる彼の背中をしばらく眺めていた斎藤は、彼を完全に見失う寸前で傘を一本だけ手にしてその後を追った。
斎藤が生きている沖田の姿を見た最後の日も、こんな風に雨が降っていた。
隊が事実上崩壊し、残った者のみで江戸へと舞い戻った時分、少し前から江戸で療養していた沖田の見舞いに行ったのである。
沖田は、京にいた時よりも更に病状が悪化しているようだった。それでも、斎藤が部屋に入ると床で横になったまま笑顔を浮かべて、斎藤さん、と掠れた声で名前を呼んだ。
元々色素の薄かった肌は更に白くなり、透けるような、というよりももはやぺらぺらの紙のようであった。以前は常に柔らかい薄紅色をしていた唇は今や見る影もなく色褪せて、蝋を塗り込めたように乾いている。
「酷い顔色だな」
枕元に腰を下ろして開口一番、そう言った。病人に言うべき台詞ではない。
ところが沖田は、斎藤の失礼な言葉を聞いて何故かふふふ、と嬉しそうに笑った。
「良かった。やはりそう見えますよね」
「ああ、かなり具合が悪そうに見えるな。まあ病人だから仕方ないだろう」
「でもね、斎藤さん。皆私の容体を見て絶句するくせに、絶対そうは言わないんですよ」
それはそうだろう。斎藤が無神経なだけで、普通は見舞いで病人に対して追い打ちをかけるような事は言わないようにするものだ。
「土方さんが一番酷かったなあ。あの人、私の姿を見た途端、自分の方が今にも死にそうな顔をして、思ったより元気そうじゃねえか、とか震えた声で心にもない事言うんですよ。どうして病人の私が、土方さん大丈夫ですか?なんて心配してやらなきゃならないんですか」
呆れた声でくすくすと笑いながら言う。笑顔は以前のままの沖田だった。
「許してやりたまえ。土方さんは自分がやたら丈夫なもんだから、病人に慣れてないのさ」
「確かに」
頷いてふと沖田は顔を逸らした。庭の方の閉ざされた障子を見つめる。
許してやれ。あの人にとって君を失う事がどれほどの恐怖か、君も知っているはずだ。
沖田の尖った顎の輪郭を眺めながらそう思ったが、黙っていた。
それは沖田にとっては彼自身の死の宣告よりもずっと、残酷に響く言葉である。
「すみませんが、少し障子を開けてもらえませんか。雨が見たいんです」
請われるままに立ち上がり、障子を半畳分程引き開ける。開けた先は中庭になっていて、雨の被膜で世界が霞んで見えた。庭の植木や池の水面が一様に押し黙って打ちつける雨の痛みに耐えていた。
礼を言う声に振り向くと、沖田は咳き込みながらも上体を起こして座っていた。
「おいおい、起き上がって構わないのか?」
「いいんです。どうせ寝ていたって同じなんですから」
沖田は雨音とよく似た、聞き取り辛い声で言った。斎藤は彼が雨を眺めるのに邪魔にならないよう最初に座っていた入口側の枕元の位置に戻る。
そして雨を眺める沖田の横顔を眺めた。
たかが障子を少しばかり開けただけで雨音がさっきよりも大きくなったように感じる。
雨は、と沖田が呟く。
「雨は、江戸中に降り注いでいるのでしょうか」
「江戸どころか、関東中が雨だろうな」
「あの人の上にも」
ねえ、斎藤さん、と静かな声が呼んだ。庭の方に顔を向けたままの沖田が言う。
「土方さんの事、お願いしますね」
「勿論だ。だが、俺なんかにお願いしていいのか」
「嫌ですよ」
そこでようやく振り向いた沖田は、微笑っていた。
微笑って、それから俯いた。こちらに手を伸ばして、斎藤の手首を掴んで、言う。
「嫌です。貴方だけじゃなく、本当は誰にも頼みたくなんかない。私があの人の一番近くに居たのに、あの人の傍に居るのは私じゃなきゃ駄目なのに。でも、もうそれも出来ない」
だから、あの人をお願いします、と消え入りそうな声で言った。
手首を彼の痩せ細った指が締め付ける。爪が刺さって血が滲み出していた。
空いている方の手で沖田の華奢な肩を掴む。片手で容易に掴み切れてしまう厚みしかない身体が哀れだった。
彼ら二人の絶望は全く同じ形のものだった。
沖田もまた、土方を置いて逝かねばならない恐怖に震えていた。
私はもう、あの人に逢えない。
悲痛な声は雨音に交じって消えた。
四乃森は寂れた小さな神社の裏手にいた。
神社自体は京都によくある古ぼけた鳥居と祠があるだけのものだったが、裏の垣根には紫陽花が見事に咲き乱れており、一面に薄桃色の手鞠のような花の頭が揺れている。
四乃森はその一角の紫陽花の下に猫を埋めた。
埋める間中、斎藤は手伝うわけでもなく傘を差して煙草を吸いつつその作業を観賞していた。傘は四乃森に差しかけてやるつもりで持ってきたのだが、邪魔になりそうだったし、第一これだけ濡れていれば一緒だろう。
その猫は野良猫だった。奔放で過酷な野良生活の割に奇麗な毛並みが自慢の美猫だったが、馬車に轢かれたらしく、その黒い毛皮は無残に血で染まっていた。
哀れなのでせめて花の下に埋めてやりたいと思った、と四乃森は言葉少なに語った。
小さな猫は短時間で土に隠れて見えなくなった。
その場にしゃがんだままの四乃森は、埋めたばかりの地面を見つめて、宗次郎が、と呟いた。
「宗次郎が可愛がっていた猫だったんだ」
雨に揺さぶられて花弁の束が涙を落とす。土に還った黒猫のおかげで、来年ここだけは青い紫陽花が咲く事だろう。
「あの子に死体を見せたくなかった」
あの子、という単語が、とても柔らかな発音で四乃森の口から零れ落ちた。
「それはまた、随分と甘やかしているじゃないか」
「いや、たぶん、甘やかされているのは俺の方だ」
「…………入るか?」
傘。
と、言うと、四乃森は有難うと微笑んで立ち上がり、素直に傘の中に身を寄せる。
確かに一理ある。彼がそんな表情で微笑うようになったのはごく最近だ。
斎藤はふと自分の手首を擦った。
あの時彼の爪が付けた傷が痛んだ気がした。もちろん錯覚である。もう二十年も前の事なのだ、爪跡なんてとっくに治りきっていて微塵も残っていない。だが。
傷跡は消えても、彼の残した慟哭の痛みは、未だに鮮明に覚えている。
(明治二十年夏至)