一期一会‏‏‏‏‏‏

多摩にある試衛館という名の道場。
あれが運命の始まりの場所だった。




天然理心流といえばその地方では少しばかり名の通った流派である。
ただし何藩御用達の、といった由緒正しいものではなく、通う者の多くは農村の若者や下級武士達であった。
とはいえ、流行っているのは事実で、斎藤一が試衛館を訪れた日も多くの竹刀を振るう若人で道場は活気づいていた。

炎暑の昼間、道場内は熱気で視界が揺らぐような気温である。
斎藤は入口付近に集う若者達に氏姓を名乗り、どなたか手合わせ願いたい旨を申し出た。あくまで他流試合であり、道場破りの類ではない事も付け加えて願い請う。
試衛館に辿り着く以前にもこうしていくつかの道場を訪ねた。どこでも大抵は力試しのつもりであろうと解釈される。しかし斎藤は自分の力量を試したいなどと思った事はない。
どこにいても物足りないのだ。既に自流の道場では斎藤に敵う者はいない。外に足を向けてもみたがこれまでに斎藤を満足させる程の人物に巡り合うこともなかった。
餓えていた。何かが足りない。
だから斎藤は自分の力試しではなく、常に相手を試す心積もりでいる。

その場の中では年長らしい日に焼けた青年が斎藤の申し出を快諾し、誰か相手をと叫ぶのを、掌一つで遮って、言った。

「こちらの中で一番の手練の者に、お相手願いたい。他は結構」斎藤の一言に、一瞬で場の者達がいきり立つ。
当然だろうな、と思いながらも小癪だ生意気だと騒ぎ立てる奴等の雑言を無表情で聞き流す。しかしこちらとしても雑魚に出てこられても時間の無駄なのである。
いくつかの道場を廻ってきた結果、先の斎藤の発言に侮辱だ何だと吠える声が激しい所ほど大して強い者もいない、という事がわかってきている。もっとも、そういう奴等が負けた後の消沈ぶりを見るのもそれはそれで面白いものだが。
性格が悪いとは自覚している。

「俺が出よう」

道場の奥から、良く通る低い声がした。
背の高い男である。長身の斎藤には若干劣るものの、それでも五尺八寸以上はありそうな上背に、すらりとした細身の肢体を持っている。道着の上からでも手足の長さが目立つ。
顔は面鉄をつけているのでよくわからない。が、明らかに周囲の群衆にはない品位があった。
ゆっくりとこちらへ近づいてくる男に道場内の一人が、師範代、と呼びかけた。
彼はその声に首肯のみで答え、斎藤の前で静かに言った。

「聞いての通り師範代だ。今この場では一番だろう。俺で宜しければ、お相手致そう」

静謐な伽藍に響く一滴の水音を聞くような心持のする声である。彼の声は聞く者の心を震わせる力を持ち合わせているようだ。

「異存御座いません。是非」

お願い致します、と不遜な目つきで斎藤は笑った。
防具をつけてお互い構えを取る。
他の者達も手を止めて道場の四方の壁に沿って二人を取り囲み、勝負の行く末を見守る。
審判には目録の者がついた。
上段やや低めに構える男の姿は先程の静寂な雰囲気とはうって変り、一種異常な闘気とも呼ぶべき気迫に満ちている。
この男はできる、と思った。

勝負は一本。


「天然理心流、土方歳三。参る」
「溝口派一刀流、斎藤一。いざ、尋常に、」






勝負は早々に決した。
何度か竹刀を打ち合った後、斎藤の飛び込み様の上段面打ちと、迎え撃つ土方の左横胴抜きが同時に決まった。
周りの者達は勝負を同時と見たが、撃ち合った当人達は斎藤の面の方が僅かに早く入った事を十分承知していた。
しかし、審判は土方の勝ちを宣言した。
相討ちに見えたのならば、自門の師範代を立てて勝利とするのはごく当然だろう。
判定が不服らしく土方は面の下で忌々しそうに舌打ちしたが、斎藤は異議を申し立てる気もなく、面を外してあっさりと、

「負けました」

と言った。
確かに竹刀剣術の勝負では斎藤の勝ちであった。
しかし、もし刀で斬り合っていたのならば、もっと早い段階で負けていた。
そう思ったからこそ素直に敗北を認めたのである。
この男はおそらく実戦においてこそ最も真価を発揮するのであろう。

「斎藤君、と言ったか」

言いながら土方は自らの面と面手拭いを外した。

「君は強いな」

斎藤は驚いて言葉を失った。彼の素顔に、である。

寸分の歪みもない流麗な輪郭に、計算され尽くしたかの如く絶妙な配置で目鼻が据えられている。稀に見る麗人であった。額に浮かぶ汗ですら美しく見える。僅かに濡れた髪の生え際からけぶるような色香が滲んでいる。
彼は薄い唇で見事な左右対称の微笑を作り出して言った。

「ちなみに君は幾つだい?」

十八です、と答えると、土方は総司と同じ位かと独り言を呟きながら少し目線を下に向けた。
夜の湖の底のように深い瞳が伏せられるとそれを縁取る睫毛の長さが明確になる。睫毛の先には一粒の汗が光っていた。
しかし美しいと称するのは土方に対する褒め言葉にはなり得ないだろうとも思った。彼の冷たく鋭すぎる眼差しと、先刻見た覇気がその言葉を拒んでいた。
斎藤君、と再び視線を上げた土方が生真面目な声で言った。

「君さえ良ければ、また日を改めて訪ねてくれないか。今日はいないが、うちの筆頭は俺じゃなくて沖田総司という名の男だ。是非この沖田と君に一試合やってもらいたい」あの、沖田総司か。
十二歳で免許皆伝、その腕関東で比類なしと噂に名高い天才少年剣士である。名だけは知っていたが天然理心流であったとまでは記憶していなかった。どうせ噂ばかりが先行し実際は大した事もないのだろうと話半分に聞いていたが、目の前の男の実力をして尚筆頭だと言わしめるのだから、十二分に期待もできよう。

「勿論です。また伺わせて戴きます」
「ああ、いつでも来てくれ」

斎藤は柄にもなく少し興奮していた。やはり弱い連中を甚振るよりもより強い者を追い求める方がずっと面白い。最近はそのつまらない事の方ばかりをやっていた。
ここは随分と楽しめそうだ。
それではまた後日、と礼をして斎藤はその場を辞す。

「斎藤君!」

背中から呼び止める声があった。

振り向くと、土方が笑っていた。

腰に片手を当てて右目だけを細めて、先程までの上品で隙のない笑みではなく、粗野で乱暴な笑い方だった。
それは端正な美貌にはまったく不釣り合いで、土方という男そのものにはこの上なく似合っていた。
少し遠くから土方は言う。


「ウチの総司は強いぜ?」


とっておきの宝物を自慢するような得意げな言い方だった。




それは不意打ちだろう。
一生の不覚だ。


唐突に、そして完全に、彼に落ちた。









明けの烏が鳴く時分。
燐寸を擦ると燐の独特な甘い香りが漂う。

斎藤は煙草を咥えながら、すぐ隣で眠る四乃森蒼紫の美しい寝顔を眺めた。
昔から、こういった系統の整った顔が好みなのだ、と自己分析してみる。
夜明け前の白く霞むぼんやりとした光の中、眠る四乃森の額に張り付いた前髪をそっと指先で払ってやる。額が露わになるとほんの少しだけいつもよりも幼く見える寝顔に、眠っていても美人だな、と思う。
四乃森はもちろん男だが、不思議と美人という言葉がすんなりと当て嵌まる。抵抗なくそう評せられるのは、四乃森が自分より十も年下だからか。それとも情事の最中の、恥じらいに染まる頬の色を知っているからだろうか。

そこでふと、くだらない事を考えている自分に苦笑する。
煙草の火をねじ消した。もうすぐ太陽が昇る。それまでには出て行くつもりである。男と朝寝をする趣味はない。

元隠密の性分なのか四乃森は僅かな物音でも敏感に反応して目が覚めるらしい。今も眠っている振りをしているだけで、実は斎藤が動き出す気配で既に起きているのかもしれなかった。
だがそれを言及するつもりはない。
斎藤は部屋を出て行く。
遠ざかる足音を聞いて安堵するか落胆するかは四乃森自身の問題である。自分には関係ない事だ。





四乃森を代替品にする気など毛頭ない。
誰も、あの人の代わりになどなれない事くらい、何年も前から知っている。


(明治十一年或日黎明)