夢幻泡影‏‏‏‏‏

斎藤は副長室へと続く冷たい廊下を歩いていた。
土方に呼ばれたからである。理由はわかっている。

十中八九暗殺の話だろう。

隊内における処罰は大きく三つある。切腹、斬首、そして暗殺である。先の二つは、例えば私闘に応じた際相手を負かさずに後ろ傷を負って逃げ帰ったら切腹、といったように明らかに隊規に違反している場合施行される。
最後の一つは、局長及び副長が「隊の為にならない」と判断した時に下される粛正であった。
今回の相手は一番隊の伍長の某とかいう男である。男が密かに長州と通じているらしいとは前々から聞かされていた。斎藤が土方に呼ばれたという事は、ついに確証を得るに至ったのだろう。
通常の暗殺なら討手を誰にするかは近藤と土方が話し合って決めるが、局長である近藤へ相談なしに土方が独断で実行する暗殺の場合、土方は討手に必ず斎藤を使う。

それを命じる時の土方の、どこか淫靡な影を含んだ鋭い眼光を見るのが好きだった。




障子の前で斎藤ですと名乗ってから、返事を待たずに引き開ける。
胡坐を組んで座った土方は文机に斜めに向かい何か書いているらしく、一瞥もせずにああと言った。
その横で沖田が、斎藤さぁん、と言って筋張った細い腕を上げて大きく振った。にこにこと笑う沖田は何冊か積み上げた本を枕にして、畳の上に仰向けに転がっている。愛想は良いが行儀は良くない。
沖田に挨拶を返して、勝手に奥に入って二人より少し離れた位置に座る。入れとも座れとも言われないので仕方ない。土方はやっと手を止めてこちらを見た。
が、すぐに視線を傍の沖田にやって、低い声で苦々しく言った。

「総司、俺の本を枕にするのは止せ」
「えー、嫌ですよぉ」
「嫌じゃねえ。お前の頭が乗っかってると本がへこむだろうが」
「それじゃあ私の頭は一体何処に置けばいいんですか」

沖田は不満げにぷうと頬を膨らませた。
無意識なのか故意なのか、彼は土方の前では特に幼い仕草を見せる。
沖田の文句に土方は薄く笑って、無言で自らの左の腿をぽんと叩いた。
ここに置けばいい、という意味のようだ。
片目だけを細めて笑う土方の顔を言葉もなく見つめる沖田の頬が、じわりと朱に染まってゆく。それを隠すように畳の上を転がってうつ伏せの体勢になる。

「……嫌な人だなあ。そうやってすぐ人を子供扱いするんだから」
「実際、餓鬼じゃねえか」

軍配は土方に上がったようだ。重圧から解放された本を回収しながら笑う土方は、沖田が色付く理由を知らない。
両腕に顔を埋めて動かない沖田を見て、子供扱いされて拗ねているのだろうと思ったらしく、土方は眼前の艶やかな黒髪を撫でてやる。
新雪の如く潔癖な美貌に不似合いの剣呑すぎる眼差しはそのままに、土方は対沖田専用の微笑みを浮かべて、畳に流れて広がる沖田の髪を優しく梳き続ける。真っ昼間に殺風景な屯所の一室で年下の男の髪を撫でている、それだけの光景だが土方がやると妙に艶めかしく目に映るのは、この男特有の色気の所為だろう。
島原あたりでこの人がやけに女にもてるのも頷ける。

しかし人を呼び出しておきながら、二人だけの世界を作るのはどうなのか。

「お邪魔でしたら出直しますが?」

斎藤の声に土方はこの場に第三者がいた事を思い出したようだ。一瞬ばつの悪そうな表情をしたが、すぐに冷静さを取り繕って言う。

「いや、それには及ばん。むしろ邪魔なのは総司だ。おい、お前、暇なら菓子でも買いに行って来い」
「酷いな、暇じゃないですよ」
「暇だろ。さっき食いてえって騒いでたくせに」
「気が進まないなあ」
「小遣いやるから」

だから子供じゃありませんってば、と言いながらようやく沖田は不承不承起き上がり、不服そうに掌を突き出した。ちゃっかり金は貰うらしい。
土方はそこに懐から取り出した、菓子を買うには多すぎる金額の銭を乗せてやる。
部屋を出る前に沖田は振り返って斎藤に向けていつもの笑みを見せて言った。
「斎藤さんの分も買ってきますよ。何がいいですか?」
「君と同じものでいいよ」
「俺は要らねえ」
「土方さんのは買ってきてあ・げ・ま・せ・ん!」

ぴしゃりと勢いよく障子が閉まった。ぱたぱたと足音が遠ざかっていくのが聞こえる。
あのヤロー、と呟いた土方は改めてこちらを見て咳払いをする。

「斎藤君、笑うのを止めたまえ」
「……失礼。相変わらずの溺愛ぶりに微笑ましく思いまして」

くくく、となおも笑いを収めきれずにいると土方の不機嫌そうな顔がどんどん凶悪になっていくのが手に取るようにわかったので、これ以上は不味いかと思い何とか息を整える。

「しかし副長、宜しかったので?」
「いいんだよ。帰ってくる頃にはけろっとした顔で俺にも餅やら饅頭やらを食わせようとしてきやがるに決まってる」
「いえ、菓子ではなくて、ですね」

今回の暗殺対象は一番隊の伍長なのである。件の男はでかい図体の割に謙虚で実直な性格で、確か沖田のお気に入りだった。向こうも沖田の事を心根の芯から尊敬していたように見えた。
そんな男を斬るのだから、沖田にも一枚噛ませるべくこの場に呼んだのだとばかり思っていたが、追い出してしまってよかったものか。

ああ、と土方はさして面白くもなさそうに微笑った。

「問題ない。どうせアイツは知ってる」

事前に話していたという事か。
それとも土方の思惑なら話さずとも伝わるという事か。
そこまで分かり合っていながら、何故一番肝心な事は伝わらないのだろう。
さて、という前置きを挟んで土方が仔細を話し始める。
決行は早晩。





新月の夜は星明かりがいつもより眩しい。
斎藤は男を追って密かに屯所から外へ出た。斬る為である。
土方には、男の同行を逐一監視しておけ、男が屯所を抜け出した夜が決行日だ、と命じられていた。
長州の輩と密会か。あるいは祇園あたりの女に逢いに行くだけかもしれない。
だがどちらでも構わない。
いずれにせよ、副長の命令は絶対である。


夜道を歩くうち、いつのまにか沖田が隣を歩いていた。
自分の部下の暗殺に立ち会う心境を訊ねてやろうかと思ったが、止めておいた。
おそらく、何も感じていないに違いない。
他人の命はおろか、自分の命すら一人の男の前では一切が霞む。沖田と共有しているのはそういった類のものである。
そして、そんな感情を抱く沖田は、土方の言うような子供では決してないだろう。ただ貪欲に求める事も諦めて妥協する事もできないから、大人にもなりきれていない。それだけだ。
そのうち、斎藤の視線が前の男ではなく自分に向けられている事に気付いた沖田は、自分より随分背の高い斎藤を見上げて、無言で微笑んだ。

子供でも大人でもなく、ましてや女でもない沖田青年の笑顔は、妖しい程に美しかった。

男の足取りが暗い小道にさしかかる。斎藤は無造作に刀の柄に手をかけた。


殺しの仕事は自分のものである。それが土方の事の中で誰にも、沖田にすら譲れない唯一だ。









久々に自宅に帰ると、干菓子の包みが置かれていた。
妻曰く、「随分と可愛らしい男の方」が先日の礼だと言って持ってきたそうだ。
添状がついている。
非常に整った奇麗な字で、先日京都で世話になった礼との旨が書かれている。
その横に右肩上がりのくせ字で、
『敵に塩を送ります』
と書き殴られていた。
溜息を吐く。


「連名で菓子折寄越しておいて、塩も何もないだろうに。惚気か?」


上包みには、あの日沖田が抱えて帰ってきたものと同じ屋号が入っていた。


(明治二十年立冬)