停雲落月
市中の巡察当番に当たっていない平隊士は、原則道場で剣術の稽古に励む事が義務付けられている。
が、組長含む幹部は自由参加となっており、しかも通常の隊務が忙しい事もあって斎藤が平生の稽古に出る事は少ない。しかし、手の空いている時は平隊士を鍛えてやってほしいと言い渡されていたので本日は久々に道場へ足を運んだ。
その時の話である。
「お前、俺に敬語遣うの止めろよ。気持ち悪りい」
休憩中、原田が突然そう声を掛けてきた。
「何ですか?原田さん、いきなり藪から棒に」
原田左之助。実動部隊の十番隊組長で槍の名手である。
原田を知ったのは京に来る遥か前、多摩の試衛館道場で、である。近藤勇の道場であるそこに他流派の斎藤は時折赴いていたのだが、同じく原田も他の道場から試衛館へ出入りしていた一人であった。しかし、原田はあまりにも場に馴染んでいたので最初は他流の人間だとは思わなかった。
誰とでも壁を造らずに接する人間なのだ。ついでに世話焼きでもある。
この屯所の道場にも頻繁に顔を出しては熱心に下の者を仕込んでいる。
だが、昔から知っている割に斎藤はこの男とあまり話した事はなかった。原田の周りには常に人が集まっていたし、斎藤は集団の中でも一歩引いていたい性分という所為もある。
「だから、敬語要らねえって。同じ組長の立場だし、いい加減付き合いも長げえし、もっと距離詰めてこーぜ?」
確かに立場という点では同じではある。ちなみに斎藤は三番隊、原田は十番隊であるが、数字が若ければ強い隊というわけではない。
しかし隊における上下はないにしても、原田の方が四つ程年上なのである。距離も何も、斎藤は年功序列の精神に則った言葉遣いにしていただけであった。もっとも隊内の幹部で斎藤より年下なのは沖田のみなので、自然沖田以外の全員に敬語を遣っている形である。
まあ、言い換えればそれだけの理由しかないので、喋り方を改める事に特に否やはない。
「アンタがいいなら構わんが」
「おう!あ、名前も『原田さん』じゃなくて『左之助』って呼べよ」
「それも距離を詰める為とやらか?」
「違えよ。決まってんだろ?」
斎藤より頭一つ弱分ほど背の低い原田は、下からぐぐっと顔を近づけて至近距離でにいっと笑った。
「俺がお前の事、ハジメって呼びてえからだ!」
日輪のような笑顔だった。
この男、黙っていればそれなりの美形なのだが喋ったり動いたりすると途端にその印象が崩れる。特に笑うと八重歯が目立ち、その性格そのままの大層愛嬌のある顔になる。
こういう人種は嫌いではないが、おそらく真に相容れる事はないだろう。
「そんなもん、勝手に呼べばいいだろうに」
「じゃあ今日からハジメな!……お、」
総司だ。
そう言って原田が道場の縁から中庭を指差す。植込みの向こう側を歩く姿は確かに沖田だ。その後ろを土方が何やら言いながらついて歩いている。ここからでは声までは聞こえないが内容は大体察しがつく。
土方はこの年下の同門生を見ると何かにつけ構いたくなるらしい。小言を言う土方と、それをひょうひょうとかわす沖田、屯所ではよく見かける光景である。
ゆえに隊内でも土方が沖田を非常に可愛がっている事は有名な話である。局長である近藤もまた沖田を実の弟のように扱っていたが、その近藤ですら土方の過保護っぷりには時として呆れる事も多い。
しかし、実情は全く逆だなどとは皆想像もしていないだろう。沖田がどれだけ深く、どれだけ長く、彼の年上の無愛想な男を想ってきたかなど。
―――総司、お前は何だっていつも俺の言う事を聞きやがらねえ。
―――聞こうとはしてますよ。でも土方さんの話は難しいからすぐ忘れちゃうんですってば。
そうやって何でもないような会話の合間に、隠れて沖田は嬉しそうに、それでいて薄幸そうに微笑う。土方からは後姿ばかりで見えないだろう。
「総司のヤツもいい加減、土方さんに伝えりゃあいいのにな」
同感だ。せめてあの顔を見せてやればいい。いくら自分の事に鈍感なあの人だって気付くだろう。
同時に、それができない気持ちも理解できる。沖田は異常に恐れているのだ。破滅を、あるいはその先を。
そこまで考えて、はたと隣の原田の横顔を凝視する。
知っていた?
斎藤の視線の意味を正確に汲み取って、原田はちょっと苦笑するように白い歯を見せた。
「左之助兄ちゃんをナメんなよ?」
「悪かった。少し見くびっていたようだな。いつからだ?」
「ん?結構前からな。お前は総司と仲良いから、知ってると思ったぜ」
それは勘違いだ。仲が良いわけではない。幾分か複雑な利害関係の一致で結びついているだけである。
しかしそれこそ、詳らかに説明したところでこの男には到底判るまい。
人種が違う、とはそういう事なのだ。
「俺が気付いてる事、総司には内緒な」
原田は彼に似合わず真剣な声でそう言う。勿論言ってどうなるものでもなし、喋る気などない。だがわざわざ口止めするような事だろうか。
何故、と聞くと少しきまり悪そうに後頭部を掻きながら言った。
「俺は総司を泣かせたくねえ」
「左之助、お前……」
喉元まで出かかった言葉を寸前でぐっと飲み込んだ。
「……お人好しを通り越していっそお目出度い奴だな」
「ハジメぇ、どんだけ天邪鬼なんだよお前」
原田はわざとらしく溜息をついてみせる。だが、すぐに持前の明るい笑顔を作り、大きな手で斎藤の背中を力一杯叩いた。
「こういう時は素直に、イイ男だな、って言えばいいんだよ!」
そうだな。左之助、確かにお前は好い男だったよ。
好い男ほど早死にするものだからな。
その日、相楽左之助は非常に珍しいものを目撃した。
斎藤が机で居眠りをしている姿である。
場所は警察某署の資料室。腹が減ったので斎藤に昼飯でもたかろうと勝手に這入りこんできたのである。ちなみに過去、何度かここで斎藤相手に派手な喧嘩を起こした事がある。おかげですっかり有名になったらしく、署内をうろうろしていても相楽に対して誰何する者などない。
そうして無遠慮に開けた扉の向こうでは、目的の男はこめかみに掌を当てて頭を支えるような格好で眠っていたのだ。
近寄っても起きる様子はない。
そもそも居眠りどころか、寝顔すら見るのは初めてだと気付いた。見る機会がなかったわけではないだけに意外だった。
目を閉じていても不機嫌そうな眉間を眺めながら、この男でも眠るのかと、当たり前の事を思った。
しかし、いつまでもこうしていても一向に腹は膨れない。
「おーい、仕事中に寝てんな。俺ぁ腹が減ってんだ。起ーきーろー!」
わざと大声で言いながら、触覚のような前髪を引っ張ってやろうと手を伸ばした瞬間。
手首をつかまれた。
「五月蠅えよ、左之助」
至近距離で硬直したまま見つめ合う。斎藤は自分で言った言葉に驚いているようだ。寝惚けているのかもしれない。
やがてぱっと手を放すと一言、
「間違えた」
と言って立ち上がり出口へと向かう。
「……は!?なっ!?」
何でえ、間違っちゃいねえよ確かに俺は左之助だよ。てか、なんでいきなり名前呼び!?普段は名字ですらまともに呼びゃあしねえくせに!!
と、言いたかったが、残念ながら最初の一言しか声にはならなかったようだ。
口を開けたり閉じたりしているうちに、出口付近で斎藤が振り返る。
「そこの欠食児童」
「ぁあ!?」
「早くしろ。蕎麦でいいんだろ」
それだけ言うと、返事は待たずに出て行ってしまった。
「……お、おう!蕎麦な、蕎麦!」
蕎麦上等だ待てコラ!と叫んで後を追いかける。
少しだけ胸が痛んだ気もしたが、空腹の所為にしてしまおう。
気付かないふりをしなくては。
誰と間違えたんだよ、なんて、絶対に聞けないから。
(明治十一年某日正午)