メイドのお仕事3‏

3.掃除をする



ベルがハタキを振り回している。

ベルが現われてから一週間が過ぎた。相変わらず何もできないメイドのベルはそれでもめげずに自分がいかに優秀かを示そうと日々努力している。今日の挑戦は掃除のようだ。張り切って本棚に向かって鼓笛隊のマーチングさながらに勇ましくハタキを振っている。うちにハタキなんてものがあった事にまず驚いたのだが。
もっとも、リビングは昨日ハウスキーパーがプロの技で隅から隅まで丁寧に掃除を済ませたばかりなので叩いても塵一つ出る事はないし、さらに言うなら本気で埃を払うつもりならばハタキは下から上にかけたら意味がないだろう。人生の内で掃除なんてほぼやった事がないに等しい俺にだってそのくらいはわかる。

だが機嫌良く「仕事」に取り掛かるベルにあえて水を差す事もない。実害もないしまあいいか、と放置して俺はベルの唯一の、本当にただ一つの特技で淹れてくれた旨いコーヒーを飲みながらテーブルに新聞を広げて拾い読みをする。

そんな、よくある平和な休日の午後だった。

ちょうど一週間前。この珍妙な生き物(正確には、その玉子)を押し付けたベルナルドは、次の日からニューヨークへ出張に出てしまった。ベルについて問い詰めてやろうと思っていた俺は肩透かしを食らい、次に一週間ちょっとの短期出張ではあったがそれ自体を聞かされていなかった事に怒りを覚えた。
どうやらカポの都合で急に出向く事になったらしい。それならば仕方がないと気持ちを静め、この押しかけメイドを受け入れて一週間。ベルもうちにすっかり馴染んだ。初めのうちは5分と保たなかった人間サイズも今では長時間維持できるようになったらしく、現在本棚に向かうベルも大きい方の姿だった。それでも一日の内、ちびサイズで過ごす時間の方が格段に長いが。

「あ!」

突然、ベルが大声を上げた。
顔を上げて一間続きのリビングの方へ視線を遣ると、ベルが一冊の本をこちらに示している。

「これ、アルバム?」

薄い茶色の、革の表紙。俺自身、過去数回しか手に取った覚えのないそのアルバムは大学時代のものだった。

「ああ……カレッジのだ」
「へえ、中を見ても良いか?」

俺が頷くとベルはハタキを放り出してアルバム片手にいそいそと小走りでこちらに来て、俺の隣に座った。テーブルの、俺にも見えやすい位置にアルバムを置いて慎重な手付きで硬い表紙をめくる。
別に俺は見なくてもいい、と言おうとしたが、思い直して広げた新聞を端に寄せる。自分のものであれ人のものであれ、アルバムなんてものは一人で見たってつまらないものだ。

ベルと一緒になって覗きこんだアルバムには四角く切り取られた過去の想い出が色褪せた写真の中に息づいていた。
写真のほとんどはヨット・クラブのものだった。俺の所属するクラブチームはそれなりに強豪だったので遠征も合宿も多く、その毎回に専門のカメラマンがついてきて俺達の雄姿をカメラに収めていた。
そこには懐かしい顔ぶれが並んでいる。あんなに団結し、喜びも悔しさも等しく分け合ったチームメイトとももう何年も会っていない。疎遠になった理由は簡単で、俺が堅気の道を外れたからだ。きっとこの先も特別な事情でもない限り会う事はないだろう。
たった数年前の事だが、呼び覚ます記憶はまるで何十年も経った後のように霞んで見える。
随分と遠い昔の話になってしまった。

ベルはそんな俺の感傷に気付かずに、興味深そうな表情で写真の一枚一枚をじっくりと眺めてはアルバムのページをめくる。

「お前はいつもチームの中心にいるな」
「そうか?ああ、このあたりからはチームキャプテンだったからな。そのせいだろう」
「どの写真もお前は見つけやすい。どこにいるのかすぐにわかる」
「そりゃあ男前だから目を引くって事だろ」
「むしろ、いつも偉そうだから目立つんじゃないか?」

うるせえ、と苦笑するとベルも笑ったが、その目はアルバムから離れる事はない。つられて俺も再び一枚の写真に目を落とす。
そこでは、見慣れた赤毛の青年が友人に囲まれて、カメラに向かって笑っていた。自信に満ちた、一点の翳りもない笑顔で。
それは未来を信じている者の顔だった。
その若者にとって未来とはただただ明るく、輝かしいばかりのものでしかなかった。そこには絶望も挫折も存在しない。そう信じ、疑う必要すら感じられなかった、そんな時代。

俺はそこに写る自分の姿にひっそりと微笑みかけ、心の中で語りかける。

大丈夫だ、ルキーノ。未来はお前が思い描いている形とはちょっと違ってしまっているが、それでもそう悲嘆するほど悪いものでもないぜ。


「若いなー……」

ベルが唐突に、感心したような口調でそう呟いた。
今更そんなにしみじみと言うような事か、それ。それに、そんな風に言っているお前の方がきっとこの頃の俺よりも若いだろう。

「何年も前の写真だ、当たり前だろ。それよりもっと気の利いた感想は言えないのか?カッコいいとか、素敵だとか」
「うん、今よりもずっと格好良いな」
「言ってくれるじゃねえか……」

憎々しげに低い声で唸る俺が可笑しかったのか、ベルはくすくすと声を上げて笑った。普段は仏頂面がデフォルトなだけに、楽しそうに笑われると余計可愛く見えるから始末が悪い。笑いながら、ベルがアルバムから顔を上げてこちらを向いて言った。

「でも、今の方がずっと素敵だ」


……今のは、ちょっとグラッと来たな……。


無言でベルの顎を掴んで唇を重ねる。突然のキスに戸惑いながらも抗いもせず素直に目を閉じるベルはやっぱり可愛い。だが。



コレを俺に押し付けたベルナルドの言葉を思い出す。
たしか、「これはお前が相手に望んでいる姿で生まれてくる」だったか。

本当にそうなのだろうか。
メイド服は、まあいい。いや、良くはないのだが、深層意識で一度くらいはベルナルドに着せてみたいと思っていただろうと指摘されれば誠に遺憾ではあるが否定する事も難しい。

だが、他は?

俺よりも年下で、俺の言う事を何でも聞いて(建前上は、だ。逆らう事も多い)、コーヒーを淹れる以外は何一つ役に立たなくて、色事には疎くて初々しい反応は可愛いがなかなか手を出させてくれなくて。
それから。俺の過去を知らないし、逆に俺が過去を疑う必要もない。俺のためだけに存在する。
たしかに好みでないとは言い切れない。

だが、俺は本当にそんな事をベルナルドに望んでいるのだろうか。なんだか少し違和感がある。
それに、それを俺に突き付けて、ベルナルドは一体どうしたいのか。

アイツが出張から帰ってくるのは明日だ。戻ってきたらとっ捕まえて問いただしてやろう。あの時はアイツも連日の徹夜続きでふらふらだったからな。ある事無い事適当に口走っていた可能性もある。



唇を離すと、ベルはいつもの仏頂面で目を逸らして軽く俯いた。キスの直後の独特の甘い雰囲気に耐えきれないらしいベルはそうやって照れ隠しに不機嫌を装っている。濡れた唇を親指で拭ってやると目元をちょっと赤く染めた。

「明日だな」

小さくベルが呟いた。
そう、明日ベルナルドが帰ってくる。

コイツの事をベルナルドに何と言って報告してやろうかと考えていた俺は、その時ベルが寂しげに微笑んだ事に気が付かなかった。