38.故にあなたを捨てられない(ラグベル)‏‏

良いワインが手に入ったから、うちに飲みに来ないか。

……なんてチープな誘い文句だろう。
それに誘われてのこのことついていく私も私だ。
そんな自嘲が頭を過ぎらないわけではないのだけれど。








ベルナルドの部屋を訪れるのは初めてではない。
いつ来ても生活感のない部屋だ、とラグトリフは思う。
平素ベルナルドは本部に用意されている部屋で寝起きしている。ここはベルナルドの、いわゆる「隠れ家」というやつで、何らかの理由で本部に帰れない、あるいは帰りたくない時に使う為に堅気名義で借りているアパートメントだ。

必要最低限のものすらも欠けている部屋は物が少なすぎてかえって雑然として見える。ベルナルドは備え付けの棚からワイングラスを二つ取り出した。ティーカップもマグも揃いのものが置いていないここには珍しく、線の細いワイングラスはペアであった。おそらくもらい物だろう。

椅子が二つしかない四人掛けのテーブルに向かい合わせで座って、乾杯、とグラスを掲げた。一口、二口と飲んでから、美味しいです、ラグトリフは笑って見せたが実のところワインの良し悪しなどさっぱりわからなかった。わからないままに酒は進む。ベルナルドの方はワインの味を楽しむよりも、どのタイミングで酔い潰れたふりをするのが一番効果的か見計らっているようだった。

ベルナルドが三杯目を飲み干した時。

部屋の電話が鳴った。




「出ないのですか?」

グラスをテーブルに置いた直後の姿勢でどこでもない虚空を見つめるような眼をして硬直していたベルナルドが我に返ったような顔で慌てて立ち上がる。

「あ、ああ、そうだな」


ラグトリフはまだ三分ほど中身の残る自分のグラスにワインを注ぎ足した。グラスを満たすワインは美しい深紅の波紋を広げている。


「はい、私だ。…………ああ」


血のような赤、とよく言われるがそれはワインに少々失礼ではないだろうか。本物の血はもっと汚い。


「別に何も…………そうじゃない、違う。いいや、」


グラスを持ち上げて向こう側を透かしてみる。背中を丸め電話機を抱えて話すベルナルドが歪んで見えた。それで、やっぱり血の赤で正しいのかもしれない、と思い直した。


わかった、と最後に言ったベルナルドが受話器を置いた。

「急なお仕事ですか?今から?」
「そう、その、すまないが」
「気にしないで下さい。僕もこれで帰りましょうか」
「いや、大丈夫だ。よければゆっくり飲んでいってくれ。出る時は鍵を」

テーブルの上に鈍い銀色のシンプルな鍵が置かれた。

「郵便受けに放りこんでおいてくれればいいから」
「本部までお返しに参りますよ」

椅子の背もたれに乱雑にかかっていたコートを取り、ベルナルドに着せてやる。素直に袖に手を通したベルナルドはありがとう、のかわりに、

「すまない」

と言った。この人の口癖だ。


真夜中の寒空の下へ出かけてゆく背中へ向けて、ラグトリフはいつも通りにっこりと笑って手を振る。ベルナルドは振り返らなかった。


閉まりかけた玄関の鉄の扉が、ふいに再び開いた。出て行ったはずのベルナルドが半身を覗かせて、今日初めてラグトリフの方をまともに見つめて、ちょっとはにかんだように微笑んだ。


「愛してるよ、ラグトリフ。……おやすみ」



バタン、と重い音を立てて今度こそ扉が完全に閉まった。

耳に痛いほどの静寂が支配する。




それを破ったのは自分の笑い声だった。
玄関先で、身体を曲げてラグトリフはくっくっと笑い続ける。とりあえず、残ったワインは全て飲んでしまおう。楽しい夜になりそうだ。





「まったく、貴方って人は……。これだから、」