37.逸聞(カンパネッラ)
ドン・オルトラーニの執務室を訪ねる時はいつも少し緊張する。
カンパネッラは扉をノックする前に、ネクタイのノットを締め直し、跳ねがちなくせ毛を何度か撫でつけ、廊下の窓に目をやり今日の天気を確認した。よし、今日は快晴だ、と頭の中だけで呟く。特に意味はない。が、気持ちを落ち着ける儀式としては十分役に立っている、と思う。
多種多様な電話の音がひっきりなしに漏れ聞こえる扉を、中の人間に聞こえるよう、しかし失礼にならない程度の強さで叩いた。機械音に混じった入室を促す声が聞こえてからノブを回す。
自己主張を続ける大小様々な電話と、無数の書類で埋め尽くされたデスクの向こう、この部屋の主へ、カンパネッラは晴天の早朝にふさわしい爽やかな声で「おはようございます」と言った。挨拶は人ととして基本中の基本だ。相手も「おはよう」と返してくれた。
いかにもインテリといった雰囲気の彼は、けちのつけようのないほど左右対称に整った顔でカンパネッラの方を見た。この場の状況を見るにおそらく徹夜明けだろうが、疲れた様子など微塵も感じられない。しかし、口元は微笑んでいても、本当に笑っているのかはわからない。そういう人だった。
ここに来るといつも緊張するのは、ドン・オルトラーニが苦手だからである。
「カンパネッラ、朝早くからどうしたんだ」
隣のデスクで同じく書類に埋もれていたザネリがそう声をかけてくれた。不機嫌そうなザネリの顔を見て、ドン・オルトラーニと二人きりではない事にほっとした。こちらは徹夜の名残がしっかりと眼の下のクマとなって表れている。
ザネリが眉間にシワを寄せる理由は、この忙しい時にまた隊長の仕事を増やすつもりか、と察してだろう。ザネリはオルトラーニ幹部が大好きなのだ。知っているから、ザネリに半眼で睨まれても怖くも何ともない。
それに、仕事を増やしにきたのは事実だし。
居住まいを正して、グレゴレッティ隊長から預かった請求書を提出しようとした時。
ノックなしに扉が開いて、当の隊長が姿を現した。
「カンパネッラ!昨日の請求書、まだ出してないか?」
「隊長。はい、今お渡ししようと、」
「わかった、寄越せ。……ベルナルド、悪いが追加だ。これと、これ」
預かっていた書類を差し出すと隊長は素早く受け取り、新たに持ってきていた分とまとめて書類だらけのデスクに滑らせた。とたんにオルトラーニ幹部の眉間に、ザネリの比ではないほどくっきりと縦ジワが刻まれる。
「ルキーノ、何度も言うが、この金額の収支は、」
「何度でも聞いてやりたいが、時間がない。お前の方で何とか通してくれ」
しばし無言の時を挟んで、オルトラーニ幹部は煙草を取り出して、紫煙と共に吐き出した溜息に混ぜて言った。
「……何とかしよう」
「さっすが。頼りになるぜ」
パチン、指を鳴らして隊長は笑う。
それから、さっとオルトラーニ幹部の唇に挟まれていた煙草を奪って、かわりにポケットから取り出したロリポップキャンディーをその口に突っ込んだ。
「おい!」
「それは礼だ。苦いもんばっか食ってたら眉間のシワが取れなくなるぞ?」
奪った煙草をくわえた隊長はウィンク一つを残して去っていった。
カンパネッラは、やっぱりルキーノ兄貴はカッコいいなあ、と後を追うのも忘れてうっとりと自信に満ちた背中を見送った。
オルトラーニ幹部はうつむいて肩を震わせ、アイツはいつも……!とか何とか聞き取れない声でぼやいている。怒っているのか、笑っているのか、判断がつかない。
カンパネッラの横でザネリが、「隊長、可愛い……」と何故か悔しそうに呟いている。カンパネッラはその不穏な独り言を、おそらく友情から、聞かなかった事にした。