29.ヘリオトロープ(ザネリ→ベル)
金曜日の夜には、赤い薔薇の花束。
手配するのは俺の役目だった。
この人がそれを命じなくなってからどのくらい経っただろうか。
「お疲れ。今日はもう上がっていいぞ」
たくさんの細かい数字がみっしりとタイプされた帳簿を受け取った隊長はそう言いながら紙の束をぱらぱらとめくる。濃いインクで印字された数字とアルファベットの羅列は俺が今しがたタイプしたばかりのもので、ふわんと独特の金属の混じったような墨の匂いが広がった。
ページを繰る隊長の長い指の動きから意識的に視線を外して、直立のまま返事をする。
「いえ、隊長がまだお仕事されているのに、俺だけ帰って遊んだりできません」
「気にするな。金曜日だ、予定だってあるだろう」
「ありませんよ。俺に女っ気がない事くらい知っているくせに。隊長こそ、」
そこで俺があからさまにしまった、という顔をして言葉を切ったので、隊長はレンズの向こうの目を意地悪く光らせた。
「予定は白紙だ。知っているくせに」
さっきの俺の言葉を辿るように言って、ふふんと笑う。怒られないだけマシだが、楽しげな上目遣いで見られても返事に困る。
金曜の薔薇の手配は昔から俺の役目だった。
その薔薇を贈られる女性の事も知っている。
ある日、もう薔薇の用意は不要だ、とこの人はそっけなく言ってきた。俺はどうして、と聞き返すような無礼はしなかったが表情に出てしまっていたのだろう、隊長はもう一度、必要なくなったんだ、と言って笑った。そう、隊長は笑っていたから。
それを見て、ああフラれたんだな、と悟った。
その時の苦笑に近い笑顔を思い出して、俺は身体を90度に折り曲げて頭を下げる。
「ご愁傷様です」
「……言ってくれるな」
他の隊ならば隊長にこんな生意気を言ったら即刻オメルタの元に制裁だろう。だがこの人は許してくれる。俺が気に入られているというよりも、単に減らず口を叩く奴が好きなだけだとわかっているが。
減らず口ついでに、付け加える。
「貴方の金曜の予定がなくなって、俺は少しほっとしています」
我ながら不審な発言だ。
明らかに面白がっているような顔で見返してくる隊長に向けて俺はつんと澄まして続けた。
「赤い薔薇なんて、隊長には似合わないですから」
嘘だった。
痩身の背筋をぴんと伸ばし、余裕のある笑みを口元に浮かべて片手で花束を抱える隊長は誰が何と言おうと俺にとっては泣きたいくらいにカッコいい姿だった。知性的で優しげなくせにどこか酷薄な微笑みに、赤い花弁はこの上なく良く似合っていた。
ふさわしくないものがあるとすれば、妖艶に媚びる唇とは裏腹に当然といった瞳をしてそれを受け取るブロンドの女と、あとはむせかえるほど甘ったるいその芳香、それだけだ。
俺の批評に隊長は、そうかと言って再び楽しげに笑った。
「やっぱり今日は俺も仕事は終わりにしよう。ザネリ、予定がないなら飲みに行こうか。独り者同士で」
デスクから立ち上がった隊長はそう言って俺の背中をぽんと叩いた。
急に近づいた距離と、俺よりもずっと背の高い隊長の髪がふわっと揺れた拍子に香った煙草の匂いに、俺の心臓の拍数は急激に跳ね上がる。薔薇なんかよりもずっと芳しい、この人の匂い。
「奢り、ですか?」
「当たり前だろう、飲みの席で部下に財布を出させるほどお前の隊長は落ちぶれちゃいないぞ」
「だったら行きます」
「現金な奴め」
くっくっと笑いながら俺の肩に手を回して揺さぶったりするから、眼鏡がずれます、と言ってブリッジを押さえるふりで赤くなってゆく頬を隠した。俺の隊長、と口の中で呼びかけてみたがそれは隊長には聞こえなかったようで、俺は安心したようながっかりしたような気持ちになった。