23.濡れ髪(ルキベル)
「ルキーノ、来ていたのか」
断りもなくバスルームのドアを開けるとそこにはベルナルドが立っていて、頭からシャワーの水を浴びながら振り返って笑った。正確には唇が横に引き伸ばされただけ、とも言う。多量の水滴に覆われた眼鏡が邪魔で表情なんてほとんど見えない。
眼鏡だけではなく、ベルナルドの上着や中に着ているシャツもズボンも、すべてがぐっしょりと濡れていた。いつも丁寧に磨かれている革靴は撥水性に欠けるらしく、本来の色よりも一段どんよりと凝ったカラーに変わっている。
まるで外を歩く時の格好そのままで、ベルナルドはバスルームに立っていた。
「……服、脱ぎ忘れてるぞ」
「うっかり忘れたわけじゃないよ」
苦笑するベルナルドに、そりゃあそうだろうな、と思う。ちょっと予想外の光景に気の利いた言葉が浮かばなかった。
「良いスーツが台無しだ」
「もう捨てるからいいんだ」「何かあったのか?」
俺が問うと、ベルナルドは黙って首を横に振る。
「急に雨に打たれたくなっただけだ。でも外は嫌味なくらい晴れていて、雨なんかふりそうにない。馬鹿みたいにたくさん星が瞬いているから。だから雨を降らせる事にしたんだよ」
虚ろな声でそこまで言ったベルナルドは、ふいに低い笑い声を立てた。バスルームに響く声はくすぐるようなビブラートだ。
「今、俺が妙な薬でも始めたのかと思っただろう?大丈夫、俺は正気だよ。酔ってもいない。ただの、こういう遊びだよ」
遊びだと言うわりに、ベルナルドの口調はずいぶん暗い。
俺はシャワーの雨がいまだ降り注ぐバスルームへ迷いなく、だが靴は脱いでから踏み込み、コルクを全開に捻る。すぐにさっきまでとは比べものにならない勢いで冷たい水が打ちつけた。風呂なんだから、せめて湯にすりゃあいいものを。
ものの数十秒でずぶ濡れになった俺は、ベルナルドの顔から水圧で少しずれた眼鏡を剥ぎ取って、頬から耳の横にかけて張り付いている濡れた長い髪を掌で掻き上げた。
露わになった線の細い頬を両手で包み、尖った顎に口付ける。それから、唇にも。水に押し流されて落ちてくる髪を何度も何度も指で後ろに掻き上げて、その度に角度を変えて口付けた。
重ねるほど深くなるキスは水の味がする。鼻で息ができないから、お互いキスの合間にクロールみたいに息つぎを繰り返した。
「遊びなんだろ?」
キスを止めて囁く。ベルナルドは笑わなかった。かわりに彫りの深い目蓋をすっと細める。水が目に入るせいか、それとも眼鏡がないせいか、いつもより目つきがきつい。だが鋭い表情にはもう陰鬱な影は見当たらなかった。目鼻立ちのくっきりした精悍な造作のベルナルドの輪郭と相反して、半開きの唇だけが女みたいに真っ赤だ。
その唇に喰いつくように、再びキスをする。ベルナルドは何故、と埒も明かない事を呟いた。それはこっちの台詞だ。
「俺も、お前と濡れたくなった」
二人の頭上にだけ降る冷たい雨は、それ以上の理由を問う事もせず排水溝に流れていった。