1.agitato[アジタート:激情的に](ルキベル)
最近のホテルのスイートルームにはグランドピアノを装飾品として設置するのが流行りのようだ。先週滞在したホテルにも置いてあった。
スイートにピアノなんかあったところで、有効な活用法など女を口説くくらいしか思いつかないのだが。
先週もまったく同じ事で毒吐いた記憶があるが、先週と違うのは、今夜の俺は一人ではないという事だ。言い訳はもちろん「仕事の都合で」だ。
自称教養の塊のベルナルドは光沢のあるピアノの縁を指でつっと辿って、スタインウェイか、と呟くとピアノの前に座った。奏でるべき曲を思案する表情で、ベルナルドは白い鍵盤を何度も撫でる。細められた瞳は恍惚に似ていて、中世のサロンで謳う吟遊詩人のようにも、場末の酒場の酔いどれピアニストのようにも見えた。
ウィスキーグラスを抱えた俺は、そんなベルナルドに付き合って王侯貴族のように傲慢に指を差す。
「何か一曲弾けよ、ピアニスト」
「……そう、だね。例えば?」
ラジオでよく流れている歌謡曲のタイトルを告げると、
ベルナルドは難問だな、と言いながらも軽やかに主旋律を弾き始めた。最初は調子の良かったメロディも進むにつれてどんどん怪しくなり、しまいには足のもつれたダンスのような不格好な曲になった。ポップスは難しいんだ、と笑いながらベルナルドはでたらめな音を響かせ続ける。もういい、と言って俺も笑った。
もはや原曲とは程遠い曲を最後まで弾き終えたベルナルドは、鍵盤の上で手をほんの少しの間さ迷わせてから次の曲を弾き始めた。今度はクラシックだ。俺でも聞き覚えのある、たしかショパンの――――。
「上手いな」
「いや、そうでもない。才能はなかったよ」
「昔、ピアニストになりたかった、とかか?」
「恥ずかしい話、芸術系の職業は一通り憧れたね。夢見がちな少年だったから。だけど結局はヤクザの帳面屋だ」
「それも悪くないだろ。俺に会えたんだから」
「その通りだけど、認めるのも癪だな」
笑いながらベルナルドはピアノを弾き続ける。白と黒の鍵盤の上を滑らかに蠢く長い指がどこかいやらしい。背後
に回ってベルナルドを抱き締めて耳朶に唇をつけると淀みなく流れていた旋律が初めて乱れた。
熱い溜息を吐いてベルナルドが苦笑する。
「ルキーノ、この曲はここからが一番、」
「だから、ここからは俺のパートだ。任せろよ」
示す音楽記号はagitato。
ベルナルドが叩いた最後の音は激情的な夜の始まりにふさわしい不協和音だった。